吾妻ひでお『失踪日記』が手に入らない。

http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2005/03/post_6.html


竹熊健太郎さんのブログでも触れられていましたが、本当に店頭にない。
思い余って、版元のイーストプレスの担当・Y田さんに電話までしちゃいましたよ。
そうしたら、現在、社内にも一冊も残っていないんだそう。発売後二日で緊急増刷が決まったのだが、今後、どの程度売れるかの予測が難しく、少しずつ増刷して様子を見ることになりそうという話でした。


ということは、当分品薄が続くってことか…。
欲しい、読みたい。本当に読みたいのに。
とくにぼくは、発売前「ぱふ」の編集部でゲラを半分くらいまで読ませてもらっていたため、たぶん日本代表クラスで蛇の生殺し状態にあるのです。


このマンガ、何がすごいって、吾妻ひでお自身が失踪し、ホームレスをやり、アルコール依存になって入院、自助団体に通う……という、本人にとっては物凄く身に迫っている(生命の危険すらある)異常な状況を淡々と描いているところがすごい。「語り手/描き手」の視点が微動だにしていない。そこがまず淡々と怖い。
また、吾妻ひでおのフィクション作品である「不条理モノ」ともテイストが変わっていないところが、さらに薄ら怖いものを感じさせます。作者自らが作品世界に組み込まれているような感触まであるのです。
*竹熊さんによる作品紹介はこちら
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2005/03/post_5.html


本当は『失踪日記』をもっと読みこまないと責任を持ったことがいえないのですが、こうした「作者である私」と「描かれた」作品との距離の差異が、桜玉吉との決定的な違いだと思います。桜玉吉は、ある意味で私たちの日常の常識の世界に踏みとどまっているから、私的な心情を直接に描くことができるし、私たちも共感をもって読むことができる。
逆に『失踪日記』では、作中に登場する「吾妻ひでお」の感情を、ほとんど読むことができないように感じられます。本当にこの異常な状況下、吾妻氏の感情が動かなかったとも解釈できる(そうしたことは、一般的にわりとあるようです)のですが、それ以上に、作品のマンガ的な書法の違いにこそ、この差異の因を求めたほうがいいかとも思いました。


吾妻ひでおは、いろんな意味でマンガ史的に重要な作家ですが、たとえば「萌え」や「ぷに」のオールドスクールとしても、もちろん読むことができるでしょう。
やっぱり、売れて欲しいし、若いひとにも読まれて欲しい。
なので、今日現在品切れなのを承知でアマゾンにリンクをしておきます。


失踪日記

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