日本マンガ学会の運営について

http://d.hatena.ne.jp/boxman/20050203#p1


(面倒なので、この件については敬称略にて失礼)
アメリカン・コミックス研究家、箱男こと小田切博のエントリー。
ようは、日本マンガ学会誌に掲載された「新聞漫画展」の「展評」をめぐって、それは論文を審査して学会誌に載せるという機能を学会が果たしてないんじゃないの? という質問状を宮本大人(ひろひと)が送ったことについてである。
正確には、宮本が「質問状」を送付するに至ったことからみえる、「日本マンガ学会」の運営に関する問題についての意見である。


この件については、当事者である宮本大人からいろいろ話をきいてしまっているので、逆に言及しづらいところがある。
ぼくは今回の件は、宮田徹也という書き手の「展評」が、実際の「新聞漫画展」の内容とは異なるものであったということと、その「展評」がマンガ学会誌に載るにあたった経緯の不明瞭さに問題の核心があると理解している。宮本のいらだちは、むしろ学会運営側に大学関係者が少なく、論文の「査読」などの機能が果たされていないことに向けられていると解釈している。


その点、小田切博の意見はたいへん穏当だし、学会が論文の形式的な基準を提示すべき、というのは、たいへん納得できる。
現実に、「在野」でマンガ評論などをやっている理事と、「学」の内部でやってきた人とで、「学会」に対する認識の違いや、温度差がある以上、むしろ形式的なことを固めていくという方法は、とても有効なものだろう。


一方、リンク先のコメント欄で長谷邦夫が内情を書いているが、学会誌に論文が集まらないのもまた事実である。また、掲載されている「論文」にも、ずいぶん程度の低いものがある。たとえば、単に作品の主題的なものを、いまの社会の「現状」と並置させてみせただけの、知的に弛緩したものだとか。また、そうしたものが「学」の内部から出てきているのがいちばんの問題だと思う。


そうした退屈な「論文」を読み、ああ、こんな感じで「ダメな大学院生」の巣窟になりかかってんだな、と思ったものだ。また「これは」と思うものは、たとえば平松和久とか、在野の書き手のほうにあったりする。ところが、ぼくも含めて在野の人間の場合、「論文」としての形式を整えることが難しかったりする。そこで内容以前に評価を低くしてしまうという問題がある。ぼくにしても、人文系の論文を書く訓練は受けていないのだから(だいいち、卒論からして「チベット高原の花こう岩類岩石の岩石学的記載」なんてものだ)。
一方、これも困ったことなんだが、優秀な院生クラスで、学会員になっていないひとも多い。またつけくわえるならば、夏目房之介大塚英志といった論者も、日本マンガ学会の会員ではない。
ひとことでいえば、本来、学会の中枢にいなければならない大学院生からは、はっきりいってナメられているフシがあるのだ。去年の学会のとき、懇親会に出て思ったのは、当初に比べて大学関係者が減っていたということだった。