きづきあきらヨイコノミライ!』 2巻を読む。
げんしけん』のカウンターパートというか、オタサークルに集う人々の嫌な面を強調したマンガ。前に「ユリイカ」の担当氏が「面白かったですよ」といっていたが(なんでも、佐々木敦がどこかの書評で取り上げていた「FADER」の書評で知ったそうだ)、ぼくの評価はイマイチ。
ストーカー、前世なりきり厨、同人ゴロ、リスカ少女……等々、こんなにイヤなものを寄せて集めてしなくてもいいのに、と思う。

大きくみれば、サブカルチャー全般が「二巡目」に入ったことによる閉塞感(その名も一輝と瞬という、同人二代目の双子の兄弟が登場するが、その弟は自分の未来が見えすぎているがゆえにひどくシニカルになっている)は感じられるのだが、どうにも後味が悪い。この後、どう展開するかで最終的な感想は決まってくるのだけれど、一方で過剰ともいえる「嫌なオタ」のショーケース状態のほうにむしろ現代的な意味はあるのかなと思う。


ぼくは基本的に、作品や作家の<批判>を殊更に表明するのは好きではないので、しないようにしている。この作品についても「どこか引っかかる」という程度に留っているなと判断し、その限りにおいて書いている。


「引っかかり」といえば、宮野ともちかゆびさきミルクティー』にも感じている。

こちらは、女装美少年を主人公とするマンガだが、しかしマッチョな男性主体であることは捨てられていないんじゃないの? という欺瞞を感じてしまうのだ。たしかに、同級生の男子に女装姿の自分が惚れられたりはしているが、しかしそこにシリアスな葛藤は描かれていない。葛藤が生じるということ自体が想定されていないように読める。
捨てきれないことのリアル、という考え方もあると思うのだが、やはり、そりゃズルだろうよ、という気になる。


だって、本当に「ぼくは男性の身体を持ってるけれど、女の子なのよ」という男がいて、そこまでなら別にいいんだけど、「女の子は大好きだからレズプレイしましょう」といって女性を口説いていたらどうですか? 

そこで誰か(男女問わず)の欲望の対象に自分がなることに身をおくというのなら、筋は通っている。むしろアリだ。しかし、自分があくまでも女の子を「落とす」という構図に安住していたのなら、それはズルってものだ。
「じぶん」を透明なものにしたまま、「じぶん」は無傷のままでいられるというフェミニズムジェンダースタディーズなど、ありえないと思う。何があっても「自分」は変わりません、なんてのが欺瞞なのは自明だろう。