松谷創一郎さんとのやりとり


松谷創一郎 id:TRiCKFiSH さんwrote:
7月2日づけコメント欄
対応する日記本文はid:goito-mineral:20040702

なんか、極端に敵/味方志向なのも面倒ですが、ある意味幸せだとは思うんです。敵に勝つにしろ負けるにしろ、そこに物語ができるから。ただ最近の若い子はそれすらもないから、それはそれで物語ができなくて辛そうには見えますね。それと、オタクの敵/味方志向というのは、やっぱり80年代的なスキームで、若い人(26以下かな)でこれに引っかかってる人は、そうとう時代遅れな印象はあります。上の兄姉とかいるのかもしれないけれど。

「誰が幸せになったのだろうか」という問題提起をした者が言うのもなんですが、本来的に「幸せ」とは相対的には測りにくいものなわけで、冷静に考えるとどちらが幸せかというのは難しいと思います。

でもね、伊藤さんの意見もわかるんですよね。僕らからしてみれば、若い世代は肩の力が抜けて楽しそうに見えたりするし。抑圧ないっすよねー。僕とか、やっぱ闘った末に美大って対抗的な選択したりとかしたんで、前はかなりそう思ってた。一方、同世代のオタクは、「女はいらない!高卒でいい!」という退行的選択をしたりしたわけど、なんにせよ僕みたいなのもオタクの選択も、どちらとも社会的抑圧の作用そのものだったわけです。ただ、そういう抑圧ないと、たしかに楽かもしれないけど、彼ら/彼女らはデフォルトでそうだから、逆に抑圧を欲している感じもちょっとは感じます。メンヘル系の大量増加や『セカチュウ』のヒット見てもそう思う。『セカチュウ』なんて、柴咲さんとかまで誉めるわけだけど、本人の人となりは、あんなのを読んで泣くような感じじゃないのに、どうなってるんだろうかって思うんですよねぇ。

あと、そういう子に「欲望をもて」とか、なんか刺激を与えて動機付けをしようと思っても難しいですねー。暖簾に腕押し。すぐにシャットダウンする。オタクみたいに怒ったりすらしない。

怒るオタクって、そういう点ではある意味「健全」じゃないですか。人間らしいというか。でも、それがないとホントコミュニケーションの幅が限られてしまうから、コミュニケーションしたい側とか、そういう人たちをお客さんとする僕らとしては辛いですよね。反発してくれてナンボだったりするし。

なんかそういう若い子といっしょに回転寿司いっても、ずっと自分が好きなネタしか食べないか、好き嫌いじゃないから来たものから順に食べるんじゃないか、なぁんて感じはあります。

で、そういうのを見てると、宮台さんみたいに「徴兵制にあたるシステムを導入すべし」みたいな意見に賛同しそうになりつつ、それもどうだろうとまた考える、みたいな(笑)。

あ、補記。柴咲さんは母親を亡くしてるから、もしかしたら過去の記憶をくすぐられたのかもしれませんね。僕もあの本を貸した友達が号泣してたんだけど、その子はおじさんを白血病で亡くしてて、その記憶がくすぐられたといってました。でも、多くの人はそうじゃないわけで、あの感動盛り上がりはなんだろうってやっぱ思うんですよねぇ。

7月4日づけコメント欄
対応する日記本文はid:goito-mineral:20040704

あの「不遇感」って、「イジめられてないのに、イジめられっ子」っていう感じでしすよね。僕もあるオタクの人とメールやりとりしてたら、「あなたは、人をバカにしたような発言をしてます!」みたいなこと言われて弱っちゃったんですよ(笑)。僕は率直に話してるのに、そう言われたらこっちはどうしようもないですからね。僕は「気にしすぎです」と一蹴しましたが、それ以外にはこちらはなにも言えなくなってしまう。当人は、弱者気分かもしれないけれど、あんなこと言われちゃったら状況において弱者はこっちになっちゃいますからねぇ。というか、強者/弱者なんてことを決める場ではないという前提がご理解されてなくて、つまり、強者/弱者とか、そういうフレーム(枠組み)を規定してから物事を判断するわけで、それは当然「敵/味方」志向に至るわけだし、なんだかなぁ、と思います。

で、誰もイジめようと思ってはないのに、そういうふうにコミュニケーションを遮断する人を見るたびに小学校3〜4年のときに同級生だったMのことを思い出します。そいつは、誰もイジめてないのに被害妄想にとらわれていて、先生にあてられた質問をイジメだと勘違いして授業中に「自殺するぞ!」と窓から飛び降りようとしたりしました。ただね、実際は誰もイジめてなかったんです。どちらかというと、関わると面倒くさい奴というふうに思われてた。そういう態度とるから、彼は友達も減ってしまって、余計に彼の被害妄想は膨らむという悪い循環に陥ってました。いつもあのことを思い出します。いまなら「大丈夫、誰もきみのことなんて見てないから」とアドバイスすると思いますけども──というわけで、伊藤さんも書かれていたように、やっぱオタクは自意識の問題に帰結するよなぁと、僕も思います。もちろんなかにはひどいイジメに会った人もいるのかもしれないけども。

ただ、それよりもいま僕が興味あるのは、もっと若い世代ですね。こっちは「不遇感」じゃなくて「不全感」という感じです。抑圧ない時代に、いくらなにをやっても満たされないという感じ。僕は、この「不全感」がそのうち「不遇感」に変容してしまうことについて、ちょっと注意して観察していたりする感じでしょうか。

それと、香山リカさんの『就職がこわい』はオススメです。これは非常にリアルな話です。僕がいまマークしているのは、やっぱこっちかなぁ。

読みにくいので、コメント欄より転載しました(改行を加えています)。


ぼくの問題意識は、「敵」を設定して対抗する身振りを取ったり、「不遇感」から過剰な活動に至ったりするよりは、抑圧のないいまの若いひとのほうが、無用に他人を攻撃しないぶんマシでしょ、ということにあります。

たしかに、自発的に何かをしようというひとの割合は減っているかもしれない。しかし、それはしょうがないというのが、いまのぼくの態度です。「敵」やら「不遇感」やらで欠落を埋めるようなモチベーションが消えたとしても、だったらもっと内的な「これがしたいから、する」という欲求が前面化したひとだけが残るわけでしょう。それでいいんですよ、多分。なぜかっていうと、これもちょっと嫌な言い方だけど、「欲望」を持てるのかということもまた、才能だと思うからです。ひとりで放っておいても何かやってるヤツ、斎藤環さんのいう「ひきこもり系」の最たるものですが、そういう連中は、必ず一定の確率で存在すると思っています。

たしかに、「敵」を設定し、怒り、不遇感を持ち、欠落を埋めるというモチベーションのほうが持ちやすいでしょう。だけど、人間、それだけではないと思うのです。そうしたモチベーションから出発していたとしても、なにかを表現し続けるうちには、単に「欠落を埋める」という以上のものが出てくる筈です。それはたとえば「美」の希求だったりするかもしれない。

だから、いまの若いひとの状況を問題視するあまり、「敵味方思考」や「怒り」や「不遇感」を「健全なもの」として、より良いものと位置づけるのは、やはりよくないと思います。話を「オタク」を自認する人々のそれに限っておきますが、それはコミュニケーションの拒否であることは変わらないし、そのせいで可能性を閉ざしている例をぼくはいくつも見てきています。つまり、「問題」としてとらえるのならば、年長のオタク諸氏の「不遇感」も、松谷さんのいう若いひとの「不全感」も、どっちもどっちだということです。だったら、無用のケンカをしない若いひとのほうが、よっぽどマシなんじゃないかなーというのが、いまのぼくの意見です。

ただ、首都圏の某底辺偏差値大学の実状などの話をきくと、松谷さんのいうような、若い人のシリアスな現状をぼくが見ていないだけなのかもしれないという気にはなります。それでも、面白いヤツはちゃんと出てくるんじゃないかと、いささか楽観はしているのですが。