7月2日づけ日記コメント欄、松谷創一郎id:TRiCKFiSHさんへの返答(返答になってるかしら?)
「不遇感」っていったいなんだろう? 「嫉妬」や「ルサンチマン」や「逆恨み」、「敵味方思考」と親和性の高いこの感情。
あなたは恵まれている、あなたには能力がある、あなたは評価されている、あなたは尊敬されている、あなたは信頼されている、あなたは愛されている、あなたは必要とされている……といったことを、頑として認めないひとがいる。それが近しい第三者からみれば程度の差こそあれ「事実」と認定されるようなことであっても、オレは恵まれておらず、能力もさしてなく、愛されることもなければ、尊敬も、信頼もされてない……と。
こういうひとが、往々にして自分は不当に不遇な環境に置かれていると考えるのではないか。
というか、「不遇感」がやばいのは、一度これに捕らわれると、損する方向、うまく行かない方向に無意識的に向かってしまうことだ。もとは幻想だったかもしれない「不遇感」を、「それみろ、やっぱりオレは努力してもしても報われないじゃないか」という具合に自ら証拠づけるような振る舞いに至る。
あるサブカルライター*1氏は、その著書に対し、ある国文学の研究者から「批評としてはよちよち歩きですが、たいへん興味深く拝読しました」といったような内容の手紙をもらい、「私は、あなたのいうような『批評』をやったつもりはございませんので、この感想には当たりません」という返事を書いたのだそうだ。
ライター氏は、この話を「これだから学者はバカだ」というような、軽く嘲笑するような調子でぼくに話してくれた。もう8〜9年前のことだ。
この話をきいて、ああ、勿体ないことをしたなあと思った。彼は自分の仕事に対して、「わかっていない」学者先生を小馬鹿にしたいようだったが、その笑顔からは「バカにしやがって!」という怒りも透けてみえた。
だけど、仮に「バカにすんな」と思ったところで、まずはその先生の人品やバックボーンを確かめてみればいいじゃないか。関心を持ってくれて、直接、感想までよこすってのは、それなりに評価しているってことなのだから。そんな切って捨てるような返事を書かなくたっていい。
上手くいけば、そのひとの持っている教養や資料を吸収することも、その人との対話を踏み台にして自分の考えを前に進める可能性もあったかもしれない。もっといえば、そのひとを利用しつくすことだって考えてもいい。そもそも、いきなり手紙に本当に「批評としてはよちよち歩き」という失礼な文言が書かれていたかどうかも、いささか怪しいと思っている。
彼は、必要以上に「不遇感」を抱えたひとだった。
だから余計に「バカにしたような」文言を、実際の手紙からは離れて、自分の解釈の過程で作り出していたこともじゅうぶんに考えられる。実際はどうだか知らないしそんなに関心もないが、ああ、このひとはこうやって自分の可能性の幅を狭めてきたんだろうな、と思っている。
この話は教訓話だ。
案外、いい話やチャンスを、こうやって見逃していることって多いと思う。
いわく、「不遇感」「ルサンチマン」は幸福の敵。