イラク・「自作自演」に見えてしまうということ

イラク人質事件について、やや考えが変わってきた。


今日の時点での問題の核心は、かくも多くのひとがこれを「自作自演だ」だと思ってしまうことのほうにある。本当に「自作自演」かどうかという事実関係ではなく、現時点での限られた情報からでも、一連の事件が自作自演に「見えてしまうこと」のほうが、よほど多くの問題や論点を孕んでいると思う。

たしかに、アルジャジーラに届いたファクスの内容はおかしい。それはあちこちで指摘されている。拘束されている様子を撮した映像にも不可解な点はある。それもおそらく確かなことだろう。しかし、だからといって「これは事前に被害者たちが画策したことに違いない」と考えるには足りない。

「自作自演」という言葉は、ニュアンスに幅がある。
「事前に被害者たちが画策した事件」
というものから、
「事件の端緒は偶発的だったかもしれないが、それ以降はテロリストとの結託があったに違いない」
というものまで、幅をもって解釈することができる。

ぼくは昨日、今後、この事件が「自作自演」かどうかの解釈論争に発展するだろうと書いたが、それはおそらく必然的に起きる。一方にこれが「自作自演に見えてしまう」という状況があり、かつその「自作自演」という言葉のうちに上のような解釈の幅が生じるからだ(だから、昨日書いたような「解釈論争に強硬に持ち込む人」ばかりを想定するのは間違っている)。もちろん、厳密には「自作自演」というからには「事前に画策されていたこと」という意味になるが、しかし、実際には後者の意味のほうにシフトして使われる場合もあるだろう。昨日の日記では、ぼくはそれを「限りなくそれに近い」と記したわけだが。


じゅうぶんな情報もなく、三人も解放されていない状況で、憶測に憶測を重ねるのはよくない。よって、やや一般論的なもってまわった書き方になってしまうのだけれど、三人が解放され、帰国したとして、これが「自作自演」だったかどうかは、当事者ですらよくわからないという事態になるのではないかと推測している。
これは可能性の話なのだが、偶発的に起こった出来事が重なり、そこにさまざまなステートメントが重ねられることで、全体として大きな「意図」に基づく「自作自演」であるかのように見えているとも考えられる。
被害者たちが拉致された後、テロリストグループの要求に従ってあのファクスの原文を書いたとか、映像編集にノートパソコンを提供した、くらいはあったかもしれない。それはわからない。わからないことは、やはり詮索しないほうがいい。


ともあれ、むしろいま考え得るのは、なぜこれがかくも「周到な」「自作自演」に見えてしまっているのか?  またその解釈が、なぜかくも人々によって語られているのか? ということのほうなんじゃないか。
それは我々が心の底ではアメリカが嫌いで、イラクへの派兵に対してなんとなくくすぶっている感情があるからかもしれない。さらにそこに、硬直した「左翼」や「市民運動」への素直な嫌悪が重なっているためかもしれない(ぼくにしても「左翼」は嫌いだ)。そこはまだ分からないし、ここを掘り下げていくと、相当にヘヴィな問題が次々と出てきてしまうような気はしている。