マンガで語る/を語ることをめぐって。

このところの煮詰まりの一因に、マンガを批評する自分の姿勢についての内省がある。

それは主に方法論的なレヴェルのものなんだけれど、ぼくは基本姿勢を「表現されたものにだけ沈潜する」ことに置いている。この間なんか、担当編集者を相手に「いや、ぼくは表層だけを見てるから」などとうそぶいて見せていた。たぶんこの姿勢は、今後も大きくは変わらない。
その背景には、たとえば『ヒカルの碁』が評価されるのに、碁をはじめる子どもたちが増えたとか、そういう社会的な文脈でばかり話題にされることへの苛立ちがある。評価されること自体はこの場合喜ぶべきだろうが、一方で『ヒカルの碁』のマンガ表現上の達成が言及されないことへの不満がある。なんだい、碁が流行んなきゃだめかい。マンガを構成する諸要素それぞれの達成と、それが多層的に重なることによる美しさへの言及はないのか、ということだ。つまり、こうした「表現されたものの達成」に対する評価が決定的に不足していると思っている。
しかし、当然のことながら、そうしたフォルマリズム的な方法だけで批評が完結するわけではない。そこで葛藤が生じる。端的にいって、社会や状況とマンガという表現が切り結ぶ結節点が必ずどこかにあるからだ。

人間に無意識下のレヴェルがある以上、また表現制度に、ひとがその表現をあるジャンルのものだと暗黙のうちに判断する(この場合でいえば、一目でそれが「マンガである」と分かり、「マンガとして」読むことができること)レヴェルがある以上、どんなに描き手/読み手が、「これは社会などの状況とは関係がない」と言い張ったところで、社会からの影響からは逃れられない。程度の多寡、レヴェルの相違はあれ、まったく無関係に作品を作り出すということは不可能だ。また当然のことながら、我々の「読み」も同様に諸々の条件に規定されている。

まあ、こんなことは、いっても仕方のないような、アッタリマエの話なのだが、それでも、ここに引っかかってしまうのである。それは、マンガをめぐる言説のうちに、マンガがただ透明に「社会」を反映しているかのように語る、素朴な「社会反映論」があり、後に立ち上がってきた「表現論」のうちには、素朴な「反映論」への反発があったからである。
もちろん「反映論」にもさまざまな種類のものがある。そのもっとも粗雑なものが、「影響」の一語をマジックワードとし、マンガの有害性(や、逆に有益性)をいう言説なのはいうまでもない。「反映論」vs「表現論」の図式は、これまた当然のことながら、テクストの扱い方、分析の仕方にも現れる。
ここでさらに、「反映論」vs 「表現論」という二項対立でものを考えるのがよくないことは、すぐに指摘されるだろう。実際、この二項はきれいに分離できるわけでもなく、また二項対立で考えたのでは、両者の関係が見えなくなるからだ。そこで、「反映論」を展開するにも「表現論」は踏まえられる必要はあるし、また、「表現論」が自らが分析してみせる「読み」を独善的に唯一のものとし、人々の多様な「読み」を抑圧しないためにも、社会や状況は考慮に入れられなければならない。大きくいえばそういうことだ。しかし、この「私」が、個々の作品とどう相対するか、という問題設定となると、また話が変わってくる。


…………ここ数日間、以上のようなことを『プラネテス』4巻をキッカケにうんうん考えていました。
「作品」きれいに完結させることを考えれば、この最終巻にあたるパートで、イラク戦争をあからさまに踏まえたような戦争のエピソードを挿入する必然性はあったのかどうか。
いや、いま真面目にマンガで表現をする以上、戦争に言及する必要が感じられたことは想像に難くない。あるいはそれは、作家としての誠実さの現れかもしれない。それは、ただ「面白いお話を描こう」とする営みなかから、<自然に>現れたものかもしれない。大上段に振りかぶった、社会に対して言及するぞ、という姿勢からではなく、ただ「面白い物語」(そういって語弊があるのならば、「ぐっと来る物語」)を追求しようとして出てきたものかもしれない。マンガにとってアクチュアリティというものがあるのならば、そうしたものとしてある筈だから。
プラネテス』が、丁寧で抑制の利いた筆致を保ったまま、それでも唐突に戦争のエピソードを挿入し、それと大団円との整合を十分に取らないまま完結したことは、上記のように考えさせるに足るものでした。

ぼくはこの作品を、表現のレヴェルでは、隅々までコントロールの利いた、マンガという表現に対してとても誠実であることを志向したものだと捉えています。ともすれば教科書的といえるほどしっかりしたコマ割り、派手なキャラクターを登場させず、しかし登場人物の心理描写を魅力的に積み重ねていく構成……などが、そう感じさせる理由となっています。
「マンガという表現に誠実であろうとすること」とは、ぼくの内では、「面白いマンガを描こうとすること」とほぼ同義です。ただ、その誠実であろうとするやり方には、多種多様なものがあります。表現制度の要求するものに愚直に応えていくやり方もあれば、制度から降りてしまうやり方もある。この一点を担保に、表現のレヴェルでの達成と、主題のレヴェルでのそれは一致する、少なくとも一致しうると考えています。

ここまで考えるに至ってぼくは、では作者にとって「マンガで物語ること」とはどういうことか? いかなることだったのか? という命題に行き当たるわけです。

マンガで「社会」を語ることに対して、ぼくはむしろ禁欲的であるべきだと考えていました。マンガは(マンガは……と限定していますが、気分的には表現全体に敷衍しての感覚でしょう)、表現は表現として美しく完結しているべきだ、という考え方です。そこには、作者をはじめとする送り手と、受け手である「私」がいればいい。もちろん、その「私」は複数いて、それが多数になっていればそれはそれでいい。けれど、それはそれぞれが独立した「私」でしかなく、「私たち」といった具合に束ねられることのない、n個の個人の群でしかない、という考え方です。だからこそ、ぼくは「マンガを読むぼくら」というカウンターカルチャー的な共同性にも懐疑的だし、さらに想像上の他者への逆恨みで連帯させられている、退行的な「オタク」のコミュニティ感覚にもついていけないのです。
とはいえ、先に「禁欲的」と書いたように、「マンガで社会に言及すること」自体を完全に退けているわけではありません。たしかにそれは、そんなことをしたって大概、上手くいかないんだから、という経験的な諦念にも裏打ちされていますし、また「物語ることで社会に言及すること」自体への疑念という具合に、より一般化することも可能です。しかし、かといって社会への言及自体がなくなるわけでも、それを要求する気分が消えるわけでもない。だから「禁欲的」と記したのですね。問題は、そこに「語ろうとする」欲望が見えていることのほうにあるのではないか。つまり、翻っては「マンガについて語る私」の問題として、鋭くつきつけられているのではないか?
ここで、こうした自省の欠落が、いまのマンガ批評がいまひとつ信用されていない一因であろう、と簡単にまとめることも可能です(たぶん、それはそれで当たっているから)。しかし、自分のことでグダグダ考えているのに、それを他人に転嫁するのはよくない。それは単に逃げでしかない。逃げちゃダメだ。逃げたらかんがね名古屋弁)。


プラネテス』の作品解釈については、もう少し整理して語る必要があると思います。また、マンガに限らず「批評行為」とは、言及する対象と言及する主体との関係性のうちに立ち上がるものです。そのあたりについても、もう少し言及してみたいと思います。



続く……かな? 
この日記、「続き」があると見せて、そのまま放置してるのが多いからなー。ミネレコ話はどうなったんだ、とか。