脳と心

思いついたことをメモ。
最近、流行っている「脳」をクローズアップして問題を語る一部の言説ってのを考え直してみると、とどのつまりは、人々の行動の不具合をまず対象にしている。電車のなかで平気で化粧をする、諸々の「ゲーム人間」、「非言語性LD」、みんなそう。この場合の「行動」には対人関係も含まれる。いずれも、行動の不具合ありき、だ。
「脳」論者は、脳内の化学物質の挙動だとか、MRTによる物理的な所見を、問題の「原因」とみなす因果論を立てることが多いように思う。単純な因果論はさすがに少ないかもしれないが、通俗的にはそう捉えられている。しかし、たとえば、統合失調症で脳の特定の部位の形状に変化が見られた(そういう記事が「AERA」に載っていた)として、それは、顔の表情に独特の変性が見られることと、どれほどの差異があるのかという説明はされない。それも病気の「結果」なんじゃないのか? という疑問、何が原因で何が結果かがはきいりしていないじゃないか、という疑問は解決されていない。
「脳」論者のいう「脳」を「心」と置き換えても、論理的には大した違いはないんじゃないかと思う。因果関係を立証するには至っておらず、いわばアド・ホックな仮説に留まっているわけだから。
断片的ではあるけれど、いくつか「脳」論者の言説を追ってみると、どうも、一般に「心」が操作可能、あるいは修復可能なものとしてとらえられていることへのアンチのように見えてくる。この場合の、「心」も「脳」も、極端ないいかたをすれば「行動」の言い換えにすぎない。そして、不具合が起こった場合、それを修復可能、可変的なものではなく、一度、変性を被ってしまったら、修復も操作も不可能、あるいは極めて困難なものとしてとらえる考え方が、「脳」なんじゃないかと思う。ようは、「脳」とするか、「心」とするかというのは、ひとの行動の不具合に出会ったとき、それに対応する姿勢の違いでしかないということ。だから「脳」論には、ある種の諦念のようなものを感じる。あるいは、否認といってもいいかもしれない。

専門のひとからすれば噴飯モノの見方かもしれないけれど、とりあえずこう考えています。