「おたく:人格=空間=都市」展/まじめな展評+おたく展=珍寺語り

goito-mineral2005-03-07



東京都写真美術館で開催されている「おたく」展、この週末はたいへんな盛況で、行列ができていたんだそうです。会期が今週末までなので、未見の方はお見逃しなくと思います。


あちこちのブログなどで感想があがっていますが、たとえば id:yskszk さんの日記の記述などは、一般的な意見として納得できるものと思いました。もしぼくが何の予備知識もなくこの展示をみたら、同じような意見を持ったことでしょう。
http://d.hatena.ne.jp/yskszk/20050306#p1


それだけ、今回の展示には背景となる文脈が何重にも畳み込まれているわけで、それはとりもなおさず「オタク」というもの(正確には、「オタク」を語ること)が孕む面倒くささのあらわれでもあるのですが、まず、これが美術展ではなく、建築展での展示であることは押さえておかなければならないでしょう。


しかし、多くのひとはこれを「美術」の文脈でとらえているし、また実際にそういう扱われ方がされています。大きく取り上げた媒体は「美術手帖」だし、NHKの番組も「新日曜美術館」でした。けれど、展示のありようとしては「アート」ではない。それは、実際に市中に存在しているオタグッズなどをそのまま「展示」するというありようにもあらわれていますし、実際「美術手帖」に掲載された斎藤環さんの手記には、コミッショナーである森川嘉一郎さんから「アートにしてくれるな」という注文があったことが書かれています。
また、斎藤さんがそれに対してやや困惑したふうであることからも、この展示が常に「アート」を指向する視線や欲望と、それを拒否しようという企画者の意思との間に展開されたことが伺えます。


森川さんは今回の展示の意図は、建築において、「国家」や「大資本」の影響力の衰微の結果、人々の「趣味」が前面化したことを見せることにあったとしています。


http://www.amgakuin.co.jp/chara/message/morikawa/index.html
このインタビューでもそれが強調されています(インタビュアーは私です)が、さらに「おたく」という趣味人の特性のうち、彼らが(私たちが、でも同じことですが)どのように空間を構造化しているか? ということに関心が向かっています。展示も、これらふたつの関心に沿って展開されていました。
会場に入って左側の展示は、大阪万博から、コミケを経由して秋葉原へ向かう変化に費やされ、その反対側には「おたく」の個室からはじまり、レンタルショーケースが並び、やはり秋葉原へと至る。この二本の軸が用意されています。もっとも、ヴェネチアと日本では展示スペースの形状などが違うという制約から、いま東京でされている展示では、この構造はやや見えにくくなっています。


ここで、はっきりいえることは、今回の展示は全体が森川嘉一郎の作品だということです。コンセプトメイキングからはじまり、隅々まで徹底して森川さんによってコントロールされた「空間」なのです。
たとえば、照明。皓々と蛍光灯の白色光が照らすそれは、通常の美術展示にはあるまじきものです。しかし「秋葉原」の雰囲気を演出し、かつ食玩などフィギュアの魅力をひきだすには不可欠なものです。イタリアでそれを実現するために、森川さんはかなりの苦労をしたということです。なんでも、ヴェネチア・ビエンナーレの内装工事などには地元の業者を使わなければならず、それがバカ高くて困ったのだとか。


だから、今回の展示には、やはり自身も少なからず……というか、相当にオタ趣味を持ち、たぶん「おたく」であるという自意識も多少は持っているであろう森川さん自身の「空間の構造化」、あるいは無意識的な趣味・美意識といったものが出ていたのだと思います。また、もしこの展示を「アート」として見るのであれば、そのレヴェルが見られるべきでしょう。そしておそらく、森川さんが「アート」を避けたといううちには、そうした視線を避ける意味あいもあったのではないかと思います。


では、この展示空間自体を、ひとつの「作品」、「作品」といって悪ければ「環境」としてみた場合、どうなのか。
個人的には、ぼくはこれは「寺」だと感じました。まるでこれは寺院だと。つまり、この展示は「秋葉原の再現」であって「再現」ではない。街並みはペーパークラフトで作られ、コミケの展示は会場のブース配置のミニチュアで作られています。徹底してミニチュアであり、ジオラマであり、現実に存在するものの「再現性」よりも、それを模して作られた「人工性」のほうが前に出ています。


それは、大量に展示されたフィギュアにもいえることだし、またオタク文化・表現が「キャラクター」という制度を基盤に置く以上、必然ともいえるのですが、同時に、想像的なものを、観念的に配置した空間ということもできるでしょう。空間それ自体としてある「理想」を体現したものであるということです。つまり、この展示空間とは「おたく浄土」というべきものではないかということです。




もっとも、ぼくが展示会場で「これは寺だ!」と感じたのは、とても感覚的なきっかけによるものでした。会場内のBGMが、『幻魔大戦』の主題曲と、『The End of Evangelion』の挿入曲『甘き死よ、来たれ』のループだったからです。それぞれ、来るべきハルマゲドンを想像する曲と、ポスト・ハルマゲドンの心情を反映した曲という理由による選曲、すなわちオタクの関心の変遷を表現した選曲だと森川さんからはききましたが、しかし、どちらも極めて「宗教音楽」に近いものであることには変わりがない。とくに『甘き死よ、来たれ』は「葬送」の曲としても聴くことが可能です。


そこで、ぼくはこの場所が大量の「少年少女」の図像に囲まれた場所であることにあらためて気づかされました。ここは「思春期の墓場」だ、宙吊りにされたアドレッセンス・セックスが、追憶の白い光の下でさざめいている場だ……と思い、急に切なくなったのです。ああ、ここは「浄土」なのだ、と。




その目で展示空間を見直してみて、なるほどこれは「寺」だと思いました。
会場入口の壁には、左側に大阪万博のパネルがあり、その対面にはオウム真理教サティアン宮崎勤の「個室」のパネルが展示されています。サティアンと宮崎、これはまさに「地獄絵図」です。


そして、その「地獄絵図」の次には「萌え」「ぷに」「へたれ」などのオタ概念を説明したパネルが……ありがたいお経です。
さらに、ずらっと並ぶ「レンタルショーケース」とは、熱心な信仰のもと寺に寄進されたもののようです。小さな食玩フィギュアがたくさん入っているのも、「仏様」を思わせます。
コミケの配置の再現は曼荼羅、天井から下がる美少女ゲーム、ボーイズゲームのポスターは仏画。会場の奥に進むと、今回のビエンナーレのカタログに添付されたフィギュア、「新横浜ありな」様が鎮座ましましています。その脇にはゲーム『月姫』のメイドキャラ、「翡翠」と「琥珀」が控えています。「ありな」の左右に配されていたわけではありませんが、ご本尊とその脇侍です。


そして、秋葉原の街頭写真が会場正面奥の壁面に大きく引き伸ばして置かれていること、つまりある神秘性を帯びた位置に配置されていることこそ、まさにこれが現実の「秋葉原」の再現ではなく、「おたく浄土」という観念の現出であることを示しています。


重ねてその目で、会場入り口に配置された「キモオタ」AAのポップを見返してみると、ちゃんと「仁王像」であることに気がつきます。
あな尊、おたく仏。これはとりあえず拝んでおくか、とありなさま古河渚さま仏像の前で手を合わせておきました。




では、斎藤環さんプロデュースの「おたくの個室」展示(おたく諸氏の個室内部の写真とそれを元にしたペーパークラフトなどによる展示。本物の二段ベッドには抱き枕も添えられていた)はどうなるのでしょうか。個室の主はそれぞれ、現役でオタ活動をしている人々です。それも相当なグレードに至ったひとばかりです(森川さんの自室も含まれています)。「涅槃」に達した人々といえるでしょう。つまり、阿羅漢。このコーナーは羅漢堂だったのです。


そうか! だから斎藤環さんプロデュースなのか!
はっ! こんなところにも因縁が働いている!!!




と、オチがついたところで、このへんで。
なんか面白くなってきたのでついおちゃらけてしまいましたが、真面目な話、今回の展示には思ったよりも考えさせられるものがありました。
上の珍寺大道場式の「珍寺語り」も、もう一歩退いてみれば、オタク文化の持つ「神秘性」や「信仰」への希求と、同時にそれを脱臼させずにはいられないことのセットを示すものだと思います。


ああ、あとひとつ、中の構造がさざえ堂になっていれば「珍寺」として完璧だったのにと思いました。何を求めているんだという話はありますがw。


ホントに、会期が今週末限りなので、未見の方はぜひ。
http://www.jpf.go.jp/venezia-biennale/otaku/j/abstract2.html



こわっ!

http://ed-02.ams.eng.osaka-u.ac.jp/lab/development/Humanoid/ReplieeR1/ReplieeR1_jp.htm


大阪大学で研究中の「人間そっくり」に動作をするロボット。via.珍スポ大百科ブログ
……しかし、なんでこんなに怖いのか。

リンク先のロボは子供タイプなのだが、成人型のもやっぱり怖い。何が怖いって幸薄そうなところ
「珍スポ大百科」でも、もっと目のぱっちりした可愛いタイプにはしなかったのかと書かれていますが、なにか理由があるのかもしれません(ex.日本人の平均的な顔を用いた、顔筋の動きを再現する機構を限られたスペースに収納するとこうなる…etc.)。開発者の趣味だったらかなり嫌ですが。


なんにせよ、基礎的な研究段階というものは、一見すると奇妙に見えがちなもの。この研究も、これ単体だけでなく、ここから派生する技術などに可能性があるのでしょう。
しかし「皮膚センサによる反応例」の動画など、「セクハラ実演」にしか見えないのですが……。


http://ed-02.ams.eng.osaka-u.ac.jp/lab/development/Humanoid/ReplieeQ1/img/touch_motion(3).mpg


というかコレ、見ててすごくイヤ。わざわざ嫌なものを見せている感じすらします。「異性間に介在する権力構造を、身体の側から暴き立てることを目的とした」とかの、神経逆なで系現代美術だったら分らんでもないのですが。


この手の研究は、これが直接に何か材の生産には結びつくわけではなく、そのぶん、いかに人々の目に快いものに見えるかが重要になってきます。そこまで込みで「技術」なんじゃないかと。そういう意味では、少々プレゼン技術のほうがお留守になっている感は否めませんね。


そもそも、なんで女性ロボに子供ロボなのか。
もし人間の動作や表情を再現/シミュレートすることが目的なら、岡田真澄みたいなのや小沢一郎みたいなのだっていいじゃんねえ。