「おたく:人格=空間=都市」展に対する「嫌悪」の表明/「萌えフォビア」の実例

http://blog.goo.ne.jp/shoushi-koureika
「愛する子どもの守り方」 3月5日からの記述


ここでいわれていることは、以下のことに集約される。
このブログの主がポスターの図像に何らかの嫌悪感を憶えたことと、それを他でもない「自分」の嫌悪であり感情であるというレヴェルをとばして「社会」への悪影響という「問題」に直結させていることである。
もっとも、彼はまだ率直なほうである。その意味では信頼がおける。だからぼくも言及することにした。実際、このように表明しているのだから。

もちろん私は
編集者を生業としているため
表現の自由という概念についてはそれなりに理解しているつもりですし
おたく文化のプレゼンスについても理解しているつもりです。
また、こうしたチラシを配布することと、幼児犯罪が直結するものかどうかも
わかりません。

しかし、小さい子供を育てている父親として
プリミティブな?不快感を持ちます。



だが、せっかくここまで素直な言明をしておきながら、論旨は別の方向にずれていく。

幼女が、
水着と思しい姿で、
グラビアアイドルのような姿勢で、
口を半開きにしている
画像を
どうして
少子高齢化問題や、
子供が安心して暮らせる社会を推進しなくてはならない文化庁
パブリックな空間で露出しなくてはならないのか?



上に引用した「プリミティブな? 不快感」と照らすと、「子供が安心して暮らせる社会」という問題の登場が「論点のずらし」であることが見てとれるだろう。
ようは、彼は「自分が不快に思うものを、公の空間からなくしてほしい」と主張しているのである。根拠は「この私」が「不快に思うから」だ。だったらその主張を貫くべきだ。子どもをダシに使うのではなく。
そもそもこの展示が「少子高齢化」に資するかどうかを問うことには、彼の内的なもの以外に根拠を見出しづらい。オタが独身のままだと子供を作らないからよくないということだろうか? 文化庁はいつも「少子高齢化問題や、子供が安心して暮らせる社会を推進しなくてはならない」のだろうか。たとえば、デレク・ジャーマンやロバート・メイプルソープといったアーティストの展示を行ったとする(別に誰でもいいが)、しかしそれは「少子高齢化問題や、子供が安心して暮らせる社会を推進する」ものだろうか。そもそも文化や芸術とは、そうしたものの推進に貢献しなければいけないものではない。これだけを取ってみても、彼がいかに没論理的かがわかる。


だからまず彼がすべきことは、おそれず「私はこれが嫌いだ。イヤだ」と正面から主張し、次に何が嫌いなのか、どう嫌なのかを「社会問題」に逃げることなく、自己の感情の問題として、内面の問題として言語化することだろう。「父親として」ではなく、「私として」。彼が「プリミティブな?」というものが、いかなる構造を持ち、いかなる経緯を経て「プリミティブ」と呼べるにいたったのかを自省し、考察することが必要だろう。話はそれからだ。



まとめれば、ぼくは今回の言表・行動を、自分の感情をまっすぐ自分で見据えるという困難から逃げているものととらえている。それは態度のレヴェルでは、ブログの文面の、高圧的でいながら、妙にシニカルで腰のひけた物言いにもあらわれている。たとえばこんな感じ。これは、コメント欄で意見を募ったうえ、そこでなされた質問には一切答えず、翌日の日記本文に書かれた文章である。

世の中がいかに病んでいるかがわかる、少しは刺激的な展開になってきました。

今後は、文化庁からの返信を待って

次の対応に移りますね。



なお、無視された質問とは以下のようなものだ。



何故今回の絵の表象記号を「グラビア」的と捕らえ、それがエロティックであり、不謹慎であり、かつ子供の安全に影響を与えると感じるのでしょうか?

『マインドゲーム』に感銘を受けたということで、メディアに性的表現が含まれることには理解のある方であると思います。
なので今回のポスターへの感想とのギャップを感じざるを得ませんでした。
返答いただけると幸いです。





東京都写真美術館では、これまでも「アート」の文脈でヌード写真などを掲示したことはあっただろう。このブログの主(月刊シニアビジネスマーケットの編集長、玉置泰史氏)は、そういった「写真」や「アート」にも今回のような抗議を行っていたのだろうか。



ぼくがこのような疑問を持つのは、「ヌード写真など実写のポルノグラフィは(条件つきでも)OK、売買春も同様。しかし、キャラを用いた性的な表現は気持ち悪いから絶対に認められない」という強い感情に、何度となく出会っているからだ。


ぼくはこの手の感情を萌えフォビアと呼んでいる。網状言論F改―ポストモダン・オタク・セクシュアリティ

萌えフォビア」については、共著書『網状言論F改』でも論じているが、私見ではそれは、「キャラ」という表現制度が「シンボル/イメージ」つまり「文字/絵」の分割と、「大人/子供」の分割という、近代の大きな枠組みを二つも侵犯していることに起因するものと考えている。このような「大きな枠組み」を侵犯するものという仮説は、はからずも玉置氏が「プリミティブな?」という言葉、つまり意識の深いレヴェルで起こった心理作用を示唆する言葉を使ったことで補強された。さらに、コメント欄に寄せられた意見を無視し、ただ「病んでいる」と切り捨てるような不可解な行動(氏はまるで、社会人としての自分の信用を落とそうとしているかのようだ)も、深層心理的な「フォビア」のあらわれとカウントしていいかもしれない。
もっといえば、玉置氏が「危険視」しているであろう「オタク」像とは、彼のうちで起こっている感情のレヴェルでの衝突の合理化のため動員されたものにすぎない。



そして、もちろんのこと「萌えフォビア」は、当のオタ自身のうちにこそ強くある。実は玉置氏は「オタク」の姿を映す鏡でもあるのだ。




【注記】
玉置氏は、今回の件について、男性からのトラックバックを拒否する意向を示している。
「女性からのトラックバックをお願いします」ではなく、「女性のみにしてくれ」という。

しょせん、おたくの人って
男だけなのでしょうか?

本当は、どちらかといえば
女性の方に読んで欲しいブログなので
今からは、女性の方のみトラックバックをお願いします。



一応これは「お願い」であって、ぼくにはこの「お願い」を聞き入れる合理的な理由を見出すことができない。よって、あえてトラックバックを送ることにした。
自分は東京都写真美術館を追及するが、しかし自分の言説に批判的なトラックバックは拒否するという態度は、あまり褒められたものではない。それでは「物陰から石をぶつける」という卑劣な態度となってしまう。


実際にコメント欄やトラックバックをみると、きちんとした意見表明に混じって、口汚い罵倒やいやがらせ的な言辞が見られる。そこで過剰な「祭り」などの事態への懸念とも考えられる(そうした事態から自己を守る権利は保証されるべきだ)。現時点では氏の心情も考慮したうえで、やはり当方の意見を伝えるべきだと判断した。当然のことながら、玉置氏であれ誰であれ、意見を異にするひとを罵倒をしたり、ひどくあてこすってみたりするのは、本当に不毛で、品のない行為だと思う。

これは大谷昭宏氏のときもそうだったが、相手がいかに卑劣で、暴力的な言辞を取っていたとしても、同じことをしてよいわけではない。




【追記】
リンク先のブログ、タイトルに添えて「05年1月1日【少子高齢化と、「結婚」より気楽な「事実婚の子育て」】ブログタイトルを変更しました。いざ、少子を守らん! 」という記述がある。「少子」という言葉は、「現在、数が少なくなっている貴重な子ども」という意味にも使われるものだろうか。ぼくが知らないだけかもしれないが、少なくともきいたことはない。このような用い方が普通にされる業界や界隈があるということだろうか?