大好きだよ、みんな。

先日、コメント取材に来た某おじさん週刊誌記者のひとに、「なんでオタクの人って、あんなにケンカをするんでしょうかね?」と尋ねられた。短期間の取材だったようだが、オタ諸氏の面倒くささやハリネズミ的攻撃性、敵味方思考には触れていたようだった。
とりあえず、「自分に自信がないからじゃないんですか?」と答えておいたが、実際、そんなところだろう。他人を叩いてみたり、ふて腐れたり、すねたりしても、余計に自分が不愉快になるだけなのになーと思う。


……とかなんとか書いておくと、すぅぐに「伊藤はそんなことをいって優越感に浸りたいだけ」とか「十年一日のごとくオタク批判を繰り返している」とかのあまりものを考えていない紋切型の罵倒が返ってくるものだが、それは違うよ。そうじゃなくて、ぼくはあんたら、それじゃソンだろ? っていってるだけなんだ。相手になにがしかの期待を持っていなければ、そんなことをいってやる必要はない。嫌いな相手にいってやるいわれもない。そりゃそうだろ。


以前、オタクを自認するある人に、こういわれたことがあった。
「なぜ伊藤さんが、そんなにぼくにつっかかるのか分かりません!」
彼はぼくが彼に苦言を呈したことに対して、こういったのだ。
対してぼくはこういった。
「たぶん、ぼくが小川びいさんのことが好きだからだよ」

ぼくの動機として、「好きだ」というのは本音だ。ただ、念のためにいっておくと、これは広い意味での「好意」だ。嫌いな相手だったら放置して、あとから物陰でバカにして終わりだ。上手に持ち上げて、陥れるくらいのことはしてもいい。それを、皆の見ている前で苦言を呈したのは、彼が自分が正しいと考えているオタ知識を批評家の某氏に伝えるのに「間違ったことをいわれないように、折伏している」という表現を使ったからだ。
おいおい、カルトじゃあるまいし、折伏はないだろう。
実際、これはある会の席上のことだったのだけど、彼はぼく以外のひとからも「あなたの言葉の使い方や言い方はおかしいよ」といわれていた。そりゃそうだろう。この人、以前には「○○さんは変節した!」といって別のある人を怒らせていたのだから。
もっとも、「語るに落ちる」というのは、こういうことをいうのかもしれない。
彼にとっての「オタク」とは、まるでカルトのような共同体として認識されていたのかもしれないのだから。


でも、それじゃ、ソンでしょう。
小川さんの人生にとっても、小川さんが豊富に持っているアニメに関する知識や経験が生かされないという意味においても。

人から「この人は面倒くさい」と思われるのと、「親しみやすい人だ」と思われるのでは、どっちが得するだろう?
自分から自分の趣味を「こんなの人としてダメですよ」とかいって、信用されないのと、趣味の楽しさを素直にいって、なんとなく共感されるのと、どっちが得するだろう?

ちなみに、ぼくから「好きだから」といわれた彼は、「ぼくは、伊藤さんのことがあまり好きではありません!」といった。その様子は、精一杯の攻撃のようだった。とても可愛いく、いじらしいものだった。三十をとうに過ぎた男性だが、まるで少女のようだった。



ぼくは損得の話をしている。
ぼくだって、ずいぶん損をしてきた。それも、無意識のうちに。あとから「あれは損した」と気づくことも多々ある。
でも、自分のこころの影に怯えている間は、損得の計算だってできやしない。
おそらく、それだけのことだ。
とても、切ない話だ。