『隠蔽された障害』が絶版になった理由

「アックス 29号」(青林工藝舎 2002.10)を見ることが出来ました。
山田花子の両親である高市俊皓・裕子の両氏による手記石川元著「隠蔽された障害」(岩波書店刊)成立から出版に至る経緯とその真実」が掲載されています。
両親が抗議をし、絶版に至った理由は、石川氏が「山田花子の”評伝”を書く」といって協力を要請したにもかかわらず、刊行された本書が「症例研究」であったこと、両親が内容を刊行に至るまで知らされなかったこと、無断で診療カルテなどを入手し、公開したこと、そして事実誤認です。

私達の立場からすれば、言葉巧みに私達には「表現者としての山田花子」を書くものと思いこませ、実は、精神医学または脳機能障害研究材料を収集し、刊行したものと考えざるを得ないのである。

今回の一連の事態の最大の問題は、先生が、面接調査を開始するに当たり、その真の目的をはっきり告げず、常に曖昧にしたままに終始し、また、出版に先立ちゲラ等を私達に提示し、最終的な確認と了解を得ようとはしなかった事にある。然るに、先生は、言を左右し、見苦しい弁解に終始し、今日(2002年9月:引用者註)に至るも、真摯な謝罪の言葉一つはない。



そして、2002年3月、弁護士を立てて岩波書店石川元に交渉開始、同年8月末、絶版・廃棄処分。岩波書店石川元が両親に対して謝罪文を提出することで決着したとのことです。裁判には至っていないようです。少なくとも「手記」には、裁判に至ったという記述はありませんでした。過去の日記(http://d.hatena.ne.jp/goito-mineral/20031115#p1)(http://d.hatena.ne.jp/goito-mineral/20031017#p2)で裁判があったかのような記述をしてきましたが、伝聞にもとづくものでしたので、ここに訂正します。


山田花子のプライバシーの公開が大きな問題となっていますが、背景には、作家・表現者としての「山田花子」についての「評伝」であるのか、「症例・山田花子」についても研究であるのか、というアプローチの違いがあります。もちろん、症例研究としてみたとしても、小学校の通知票やカルテの引用は、読んでいて「こんなものを何の関係もない第三者のぼくが読んでしまってよいのか」と自問せざるを得ないようなものでした。このブログでの記述を見たひとの、のぞき見的な興味を喚起しないことを祈るばかりです。少なくとも、単なる読者であるぼくには、そこまで他人のプライベートに立ち入る権利はないと思います。その意味で、読んでいて気分の悪くなるものでした。


ぼくの問題意識は、石川元の「マンガ表現」を扱うときの態度や手法のほうにあります。あくまでも「マンガをめぐる言説」の問題としてとらえています。ですから、精神科医としての、あるいは物書きとしての倫理については、あまり立ち入るつもりはありません。しかし「評伝」か「研究」か、という問題は、著者の作品分析の手法や態度に関わってきます。となると、いくら言及を「マンガをめぐる言説」の問題に限る、という立ち位置でいたとしても、やはり、絶版に至った経緯と、その文脈での本書の問題にも触れないわけにはいきません。


石川元には、やはり山田花子を扱った文章を収録した著書『こころの時限爆弾』(岩波書店)があります。こちらは、ゲラの段階での両親のチェックもあり、現在でも刊行されています。この本での記述と、『隠蔽された障害』の骨子は、おおむね同一です。しかし、より「実証的」に、山田花子の「作品」に、一見、緻密にみえる分析と検証を行った『隠蔽された障害』のほうが問題となったのは、どういうことなのでしょうか。ぼくは、著者が、次第に自らの手法におぼれ、どんどん見据えるべきものから離れていったのではないかと考えています。『こころの時限爆弾』では、山田花子の作品を高く評価するという記述があり、また「アックス」の手記によれば、作品の「オチのなさ」に至る山田花子の姿勢も「しきりに賞賛し、全集刊行を私達に薦め」ていたものが、『隠蔽された障害』では一転して、同じことを障害の徴候としてしか記述していません。この二冊の本の間、刊行時期の差にして約3年半のあいだの変化がうかがえるのです。


石川元の主張は、一貫して、曖昧な「こころ」を排し、「モノ」を媒介に語ることにあります。彼は、その考え方を進める過程で、たとえば作品のもつ「力」であるとか、あるいは「美」のようなものから次第に目を背けていったのではないでしょうか。もっといえば、「山田花子作品にこころを動かされた自分」から目を背け、否認していったのではないかと思います。