もうだめかもしらんね

日本の基礎科学を蹂躙する事業仕分けの蛮行に怒ったり呆れたりの毎日です。皆さんいかがお過ごしですか。
仙谷由人行政刷新担当相は、この事業仕分けを「これまで一切見えなかった予算編成プロセスのかなりの部分が見えることで、政治の文化大革命が始まった」と言っています。
この人、1966年に東大に入学していますから、「文革」の何たるを知らずに発言しているわけではありません。
おそろしいことです。


先の政権交代を「無血革命」と言ったひともおられましたが、その結果がこれです。
団塊の世代の方々が掲げた理想が、下の世代のわれわれに絶望をもたらしていると言っていいのかもしれません。


この政権のコンセプトをつきつめると、知的な達成に向けてがんばることや、人生の向上心みたいなものが排除され、ただ生きているだけの人が賞揚される社会が待っているような気がします。
先端研究はいらない、文化的な啓蒙もいらない、ただただまんべんなく均等に子供手当てを支給することが求められている、というわけですから。


科学も、文化も、芸術も、よく考えられたもの、洗練されたもの、先端的なもの、つまり受容できる人の人数が必然的に少なくなるものはいらない、という社会です。


だって「文化大革命」ですよ。
比喩として言っているとして、ではこちらも比喩で返せば、この先にあるのは「下放」じゃないのか、「ポル・ポト」じゃないのかと思います。


「仕分け」の具体的な様子を聞いていて感じたのは、「専門家よりも、何も知らない人間のほうが正しい」という姿勢です。
マスコミで仕事をしていると、よく「それじゃ読者は分かりませんから」的なことを言われたりします。
ちがうよ。読者は分かるよ。少なくともおまえよりはよっぽど頭がいいよ。
構造的には、それとよく似ています。
仮想的に「大衆」を設定して、そこに依拠することで、どれだけでも考えずにものを進めてしまえる。
結果、行き着く先は「馬鹿こそが正しい」「ものを考えていない人間が正しい」という社会です。


これは杞憂でしょうか? 極論でしょうか?
それとも、ぼくのほうに考えが足りないのでしょうか。
むしろ、そうであって欲しいと願います。


しかし、あの仕分け人の考えのなさ、論点の見えてなさを見るにつけ、東浩紀くんの提唱する「民主主義2.0」の説得力はぐんと増した感があります。


※「民主主義2.0」が何かに関しては、検索してみてください。