「思想地図」に論文を書きました。

いまさらですがお知らせです。


NHKブックス別巻 思想地図 vol.1 特集・日本

NHKブックス別巻 思想地図 vol.1 特集・日本



「ニッポンのイマーゴポリティクス」と題された章で『マンガのグローバリゼーション―日本マンガ「浸透」後の世界』というタイトルの文章を書いてます。東アジアはもちろんのこと、北米やヨーロッパの若い作家たちが「日本スタイル」のマンガを自らの表現としはじめている状況を紹介するとともに、すでに事態が「日本製のマンガ作品が世界各国で受け入れられて嬉しい」と脳天気に言ってればいい場面をはるかに通り越していることと、日本国内のマンガ関係者に特有の諸外国への関心の低さなどから、今後、オリジネイターであったはずの日本が国際市場から取り残される可能性を指摘しています。
こういう問題提起をする以上、「まんが読者である私」「おたくである私」という自意識の問題にも踏み込まざるを得ず、『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』を中心に大塚英志氏の批判を正面から試みています。
2005年アメリカで刊行された、スヴェトラナ・クマコヴァ作『ドラマコン』に登場する「マンガは日本のものだ!」「日本人が描いてないものをマンガと呼ぶな!」という "closed minded manga fan" の白人少年をとりあげ、その閉鎖的なマニア心理と、大塚氏がアメリカン・コミックスやハリウッドの実際をよく知りもせず批判し、日本戦後マンガの「倫理性」をいう態度とを重ねています。


『ドラマコン』の日本語版は、ebooksでダウンロード販売されています。スクリーンショットが取れないようプロテクトがかかっていたので、「思想地図」では原語版の図版を用いています。
http://www.ebookjapan.jp/shop/title.asp?titleid=7001&genreid=28025


論旨としては、「クール・ジャパン」に象徴される転倒したナショナリズムに対抗する、一見リベラルな言説が「マンガを読む/描くぼくら=おたく」というネオエスニックな閉鎖性へと堕していくことの指摘と、物語るもののかたちとしての「マンガ」の可能性ということになります。大塚氏の言う日本マンガ・アニメの「歴史性」からくる「倫理」は、とどのつまり、敗戦国の国民という、私たちと同じ過去を持ってないと実現できないものという主張に収斂してしまうのではないか? ということです。


2ちゃんねるの東スレで、
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1208858405/

582 :考える名無しさん:2008/04/27(日) 19:33:58 0

伊藤剛の論文は、半分以上が大塚批判だったな。
でも、それってさ。わざわざ「思想地図」って名前の雑誌でやることか?
期待してただけに、がっかりだよ。大塚は耄碌してるけど、そう簡単に
馬鹿にしていい奴じゃない。



と書かれてましたが、正面から批判することと、馬鹿することは当然違います。
それと「東浩紀の雑誌で伊藤剛大塚英志を批判」ということ自体が、すごく狭いオタク論壇プロレスみたいに見えたのかもしれませんが、マンガやアニメの世界化と「日本」が無媒介に結び付けられることに対して、検討しなおしてみたというものであり、大塚氏の批判はその手がかりであって目的ではありません。それでも「思想」にふさわしくないのであれば、そもそもぼくがわざわざ「思想地図」に呼ばれた意味がわからなくなる。
期待していただいたようなので、再読していただければと思います。この評だと、とにかく大塚英志を馬鹿にしただけの文章を載っけただけみたいなので、一言。
ていうか、「耄碌してる」ってのもひどいいいざまw




大塚氏の批判を正面から試みた理由には、氏の影響の大きさもあります。
大学でマンガ研究をやってる学生・院生の方の論文を拝見する機会が最近は多いんですが、本当に、示し合わせたように大塚英志が参照されている。いまのところ、そうした論文で『ジャパニメーション〜』をそのまま受けたようなものは見ていないのですが、それだけ影響力の大きなものとして「大塚英志」はある。
また、この「思想地図」の拙文については、同書をそのまま引き継ぐ形でぼくや夏目房之介さんを批判した紙屋高雪氏にもぜひ意見を伺いたいところです。


紙屋氏は、「ユリイカ」2006年1月号での夏目房之介宮本大人、私の鼎談での『ジャパニメーション〜』への言及に対し、「ところで夏目たちの態度はなんだ」「太平楽を気取る」と強く論難をされています。http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/japanimation.html 
そう論難された以上(具体的には夏目さんに向かってるのですが)、では正面から批判を試みましたので、正面から返してくださいますか、と詰め寄るくらいのことはさせていただきます。


紙屋さんとは、面識も何もなく(築地書館の社長のはからいで電話で一度お話しただけ)、ただ書かれたものを読むだけでそれでも人柄の良さに好感を持っていたし、世代的な共感もあって、良質なマンガエッセイとして高く評価しているのですが、しかし、思想の部分では相容れないというよりも、いつも突然のように戦後民主主義的な左翼の枠組みに飛んでしまう身振りに違和感を感じていました。それが実は現実の否認になっているように感じられたんですね。これは大塚英志氏にも共通して感じることです。ちなみに『ジャパニメーション〜』で語られている戦後マンガ言説史ですが、あれは相当に問題があり、呉智英石子順を攻撃したことがマンガ言説の脱政治化を促し、夏目らの「表現論」につながったというのは、あまりに牽強付会というものでしょう。紙屋さんはこの点についても大塚言説を受け入れておられますが、しかし、では、現在「表現論」の観点から石子順造(順ではなく)が再評価されようとしていることを、どのように説明するのでしょうか。


また、それに無批判に乗っかってか、表現論vs社会反映論という二項対立を自明のもののように扱っている紙屋さんの言説にも、首をひねらざるを得ません。表現論と社会反映論はけっして対立するものではなく、接続しうるものだということは、テヅカイズで説明したとおりなのですが、またその一方で「ガンダムで政治が語れてしまう」といったことを口にしてしまう紙屋さんの呑気さには、少々呆れてもいます。
「思想地図」が刊行された背景には、「サブカルチャーについて語ることが、そのまま政治や思想を語ることになりうる」という認識があると理解していますが、それはこのような皮相なレヴェルでなされていいものではないでしょう。


表現論の要諦は、「表現」を主題を語るための透明な媒体と扱わず、不透明でいたるところ不連続なものとしてみるところにあると思います。それは、社会を構成する諸要素もまた、同様に不透明で複雑で、不連続なものとしてとらえることにつながります。私にしても、社会反映論を反映論であるからという理由だけで退けることはしませんが、しかし慎重にはなります。なぜ慎重になるかといえば、素朴な反映論が、表現を透明なものとして扱うというだけでなく、社会の複雑さを捨象した、ひどく図式的でのっぺりしたものに思えるからです。


そもそも「思想地図」の小論自体が、表現論と社会反映論がきれいに対立するものではないことを示すものになっていると思います。