あの「コミ通」石館通信と似たスメルがする「ひだけーだい」

AYS:笑いをクリエイトするギャグ作家がマンガ家たちの怒りを買っている
http://d.hatena.ne.jp/AYS/20070208#p1


詳しくはリンク先を参照してほしいんだけど、「私の考えたギャグやネタを売りますよ」というビジネスをはじめた者がいて、いしかわじゅんをはじめとしたマンガ家諸氏に営業メールをバラ撒き、人々の失笑や怒りを買っているという話。


話題の元となっているサイトはここ「ギャグ作家 ひだけーだい」。
http://www.omogaku.com
「ひだけーだい」で検索しても、ほぼ何もかかってこないので正体は不明だ。


id:AYS氏も呆れているが、この男、驚くべきことに西原理恵子に「ダメだし」をしている。
http://www.omogaku.com/2255.html
このページを下にずっとスクロールすると出てくる。
「鳥頭の城」からおそらく無断で引っ張ってきたとおぼしき身辺雑記マンガを「添削」している。「業務」の一例のつもりらしい。
これがすごい。

その作品を笑点ごとに分析、
そして改善策を提案させていただきます。
独善的ではなく、なるべく
お笑いマジョリティー的な
視点での丁寧な分析を
心がけたいと思っております。



その「お笑いマジョリティー的な視点での分析」とは、具体的にこんなものだ。

結論からいうと似ていません。あるあるの着眼点自体は面白く、「子供の頃に心霊写真の本に怖くて近づけなかった」という経験をした人は一定数いると思うので、共通認識性はあり、あるあるとして成立しています。しかし、比喩元の「切ない作品のパッケージに対する嫌悪感」という感覚は世間の人は持ち合わせていないように思います。ですから鴨っちさんが泣いてしまうとういう話にはとうてい無理があります。そのくらい大げさにしないと漫画として成り立たないのかもしれませんが、すこぶる嘘くさいです。 (強調:引用者)



いかがでしたか。
「分析」の俎上にあげられているのは、西原理恵子の元夫である(このマンガが描かれた時点では夫か)鴨志田譲が、『火垂るの墓』を見るとは泣いてしまい、ついにはビデオのパッケージを見るだけでもうダメ、というネタである。またこれは『火垂るの墓』と鴨ちゃんネタという、一連のものの一部だ。つまり、この「前」があり、かつ「鳥頭の城」というサイト内のコンテンツでもあるので、読者はマンガ内の西原や鴨ちゃんがどういうキャラかをよく知っていることは前提としていいだろう。
なんだかくだくだしく説明するのもどうかと思うのだが、このマンガは、鴨ちゃんの自分の娘に向ける感情やら、そこから派生したものなのか『火垂るの墓』の節子に対する過剰な反応(これを「萌え」といってよいかどうかは難しいところだが)というものを踏まえている。もう本当に、こうしてイチイチ言葉にするのも馬鹿馬鹿しくなってきたけれど、決してこれは「ひだけーだい」が大仰に「分析」してみせるような意味でのあるあるネタに留まるものではない。


普通はこの三コママンガを単体でぱっと見ただけで、これにはこの「前」があって、キャラクターには性格づけもあれば来歴もあると気づくものだろう。逆にいえば、そのように「前後」との連続が想像されることで、現在のコママンガは読まれている。そもそも「せつ子モードスイッチ」と言い表されていることからも分かるように(その意味するところのものについては、もう繰り返さない)、ここで描かれている感情は「ひだけーだい」がいうような「嫌悪感」でない。こういったコンテクストが完全に捨象され、奇妙な単純化がなされているのはなぜなのか。どうも、その鍵は結語とされている「すこぶる嘘くさいです」にあるように思う。そして、ここに例の「コミ通石館光太郎と共通するものを感じる。


コミ通」の一件については知らない方もいると思うので解説しておくと、「ファミ通」を盗用したデザインのマンガレビューサイトである「コミ通」で、主催の石館という男が吾妻ひでお失踪日記』を強く批判、その「批判」があまりに低劣であったため、「炎上」したというものだ。該当のエントリーはすでに削除されているので、参考のためはてなブックマークのURLを貼っておく。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://comitsu.blog47.fc2.com/blog-entry-37.html


この、人々が驚き呆れた『失踪日記』批判の骨子は、アルコール依存による入院体験やホームレス体験を「コミカルなタッチ」で描いたのでは、「『実体験』の魅力」「著者が自分自身で体験した、貴重な出来事」の「リアリティ」を読者に伝えることができないというものだった。そして、アルコール依存やホームレス体験のような「それほど珍しい経験ではない」ものではなく、「本当に聞いた事も無いような出来事ならばコミカルに描いても成立するかもしれ」ないとサジェストまでしたのである。
いまさらいうまでもないと思うが、このあまりのリテラシーの貧しさに、人々は驚き呆れたわけだ。
参考:全文コピペ id:ghoma:20060924


コミ通」石館、「ひだけーだい」に共通しているのは、マンガの「リアリティ」のある部分、私の言葉でいえば「もっともらしさ」の中核をなす「生々しさ」や「臨場感」について、ひどく鈍磨した感覚しか持ち合わせていないであろうという点だ。彼らは、自分自身の日常の「体験」の延長でしかそれをとらえていないように思う。言葉をかえれば、想像力がない。
あるいは、彼ら自身はもっと豊かな「読み」を発揮できる能力を備えているのかもしれない。しかし、そうだとしたら、それは彼らが「マジョリティー的」と信じているものによって強く抑圧されているのではないか。多くの人々はきっとこの程度の読みしかしないのだから、それがエンターテインメントとしては正しく、それ以上の繊細な読みや、想像力を豊かに喚起させるようなものはマイナーにすぎないという信仰が隠れているように思えるのだ。


しかし、もしそうだとしたら、その態度とは、あまりにも「大衆」をバカにしすぎていないか? どうせこの程度のもの、とナメきった態度じゃないか?
コミ通」主催の石館通信こと石館光太郎の本業は放送作家で、現役かどうか分からないがお笑いコンビとしての活動もある(相方は中曽根康弘の孫、なんだって)。
http://members.jcom.home.ne.jp/horakaku/profile/img2/gogomaru.jpg


この男や「ひだけーだい」の「退廃」とは(これははっきり「退廃」といっていい事態だと思う)、現在のテレビのそれなんじゃないかという気がする。
どんなことであれわかりやすく瞬時に伝わるものでなければならないという強迫観念があり、それがあたかも正しい規範であるかのようにすりかえられた結果、表現の内実は問われず、程度の低いものも許容されるようになってしまったのではないか。言い換えれば、無限にサボれるようになったり、本当に愚鈍なヤツでも、小器用で動きさえよければ、仕事ができてしまっているのかもしれない。


こういう風呂敷の広げ方はあまり好きではないが、このところ「あるある」などで問題になっている、番組内データ捏造などの話ともつながってくるんじゃないかとは思う。