江川達也『日露戦争物語』連載終了について書かれた週刊朝日を買ってきました。

まだざっと読んだだけで、しかも「最終回」自体を見ていないんですが、編集長のコメントも歯にものがはさまったようだし、江川達也氏の発言ももうひとつピンとこない。それと、記事全体がいかにも「ファンが書きました」という体裁の、お追従的なものだったのも白けました。


記事中でいわれるように、江川氏がもし本当に「ドキュメンタリー」的なマンガをやりたかったのであれば、単に発表媒体を週刊誌ではない場所に移すか、描き下ろしにすればよかったわけだし、そのほうがよほど話題になる良い作品を作ることができたのではないかと思います。しかし、それはなされていなかった。確かに、記事中では今後はそうした展開も示唆されていますが、ぼくの推測では、おそらく今後もないのではないかと思います。


その予測は置くとしても、『日露戦争物語』は、「マンガ」として「表現」としての質がおそろしく落ちたものでした。もう少し率直にいえば、このところの「スピリッツ」は、全体としてマンガの質が表現のレヴェルで落ちているように見えています。買ったとき「あれ? 増刊を買っちゃったかな?」と一瞬思うくらいです。そういう状況で、ああいう、マンガのテイをなしていないものを載せていちゃいけないでしょう。全体の足を引っ張りかねませんし、だらだらと続けてしまったことは、雑誌、江川氏の双方にとってマイナスだったと思います。


というと、江川氏は「なぜマンガはエンターテインメントでなければならないのだ」と反論するかもしれません。
記事中で、江川氏は次のように述べています。

確かに今回は自分が歴史を推理することで精いっぱいで、そこに漫画的味付けというか、面白いところだけを編集して出すところまで手が回らなかった反省はあります。
でも映画ならエンターテインメントもあればドキュメンタリーもノンフィクションもありなのに、漫画はエンターテインメントしか認められないって、おかしくないですか。漫画ってそういうもんだと思われてるところに、俺は腹が立つんですよ。俺が描きたいのは啓蒙性がある漫画なんです。



ドキュメンタリーやノンフィクションと対置されるのは、「エンターテインメント」ではなく「フィクション」だと思うのですが、この発言から見て取れるのは、江川氏が「マンガ表現」を手段としか見ていないということです。ここには、「マンガ表現」それ自体を価値あるものとする視線が決定的に欠けています。その意味では、彼ほどマンガを馬鹿にした者はいないでしょう。
たとえば、江川氏のこの発言は、よしながふみ氏の発言と対極をなすものです。よしなが氏は、「私は自分の思想なりを伝える手段としてしまうには、あまりにマンガを愛しているので」と「スタジオ・ボイス」誌のインタビューで語っています。短いけれど、どきりとするような鋭い言葉です。
こうして発言を対置させてしまうのは、よしなが氏に対して失礼きわまりないことだし、本当に申し訳ないんですが、しかし、本当にマンガを「手段」の位置に堕してしまっていてよいものなのでしょうか。その結果を『日露戦争物語』の失敗に見ることは可能でしょう。
そして、我々にできることは、失敗から何かを学ぶことだけです。




一方、このところの江川達也の発言などをみると、どんどん尊敬できるところが減っています。さもしく、小ざかしく、品がなく、醜悪。それがいまの江川氏に対する私の印象です。そんな方に「啓蒙的なマンガを描きたい」といわれても、それは説得力がないというものです。


彼はマンガを手段に、いったい何を、そして誰を啓蒙するというのでしょうか?