『サルまん』吉祥寺ブックスルーエ本日の状況、80年代地下文化講義、フリッパーズ・ギター

今日、昼すぎに吉祥寺ブックスルーエに行ってきましたよ。
ぼくはいま、だいたいこことパルコブックセンター、啓文堂の三店(いずれも吉祥寺駅前)をマンガ新刊定点観測先としているんですが、お店によって棚の作り方が違っていて面白いです。啓文堂がどちらかといえば女性の店員さんの趣味かな、という感じで、パルコブックセンターもそう。そしてルーエがいちばんマンガ読み男子の匂いがします。
ひょっとするとハズしてるかもしれませんが、印象としてはそんな感じ。


さて、竹熊さん自ら書店での状況報告をブログで呼びかけている『サルまん』、本日の状況なんですが、昨日、コメント欄で相原コージさんが報告されていたのと同じく、上巻6冊、下巻10冊。変化なし。少なくとも9月7日木曜日と、8日金曜日の午前中にルーエ二階で購入したひとはいないということになります。


ぼくは……というと、ご献本をいただいてしまったので、さすがに二セットめを買うのをためらっているという状況なんですが、ご献本御礼もかね、こうしてブログで触れている次第であります。




というよりも、みんな、読んだほうがいいですよ。『サルまん』。
いまあらためて読み返してみたんですが、たしかに発表時の時代を感じさせはするんですが、そのわけのわからない密度と強度において、頭のおかしい仕事であることは変わりありません。そう簡単に色あせるものじゃない。すごく面白い。


もっとも、この作品をじゅうぶんに理解するには、80年代日本のサブカルチャー状況を知っておく必要もあるんですが、逆にいえば、『サルまん』そのものが、確実に現在にも続いている80年代の状況をビビッドに知る素材となりうるということです。だから、いまサブカルチャー研究とかしようとしている学生諸君には、マストといえるでしょう。また、いまマンガ批評・研究に携わっている若いひとのなかにも、『サルまん』の影響を受けているひとは数多いと思います。たとえば、このあいだid:nanariさんとお会いしたんですが、彼も『サルまん』への思い入れを語ってくれました。


80年代の「気分」をいまひとことで言い表すことは難しいのですが、ひどく乱暴にまとめてしまえば、「もはや新しいもの(=オリジナル)はない」という諦念と、既存の価値判断や枠組みをいったん無効にするかのような「一撃」を尊ぶ気風という言い方になります。
それは、たしかに「一発芸」であり「裏かき」であり、あるいは「まぜっかえし」や単なる「ひねくれ」でもあったのですが、しかしそこには、それまでにあった表現や、価値体系や、道徳や、倫理を支える「構造」そのものへの言及が孕まれていました。一方で「真面目」なものを笑いながら、しかしそれを為している身振りは、ひどく生真面目であったという言い方もできるでしょう。90年代以降、現在にいたるまでゾンビのように残存している「不真面目に不真面目なことをやる」ひとたちとは、ここが大きく違います。「ネタだから」「既存の学問の枠組みを批判したいから」でいい加減なことが許されると思ってるひととの違いですね。


このことは、こと「表現」に真摯に関わる以上、ある局面から逃げたとしても、別の局面では正面突破を余儀なくされる、という言い方もできるかもしれません。
サルまん』では、「ウケる○○まんがの描きかた」という定式化を行い、さらにそれをシャレのめすというアクロバットが週刊連載というテンションのなかで遂行されていました。その「連載内連載」であるとんち番長は、シャレではじめられたはずのステレオタイプが、いつしか「ベタでマジ」な物語の強度を帯びてしまっていたものでした。そして、そのギャップから産まれるテンションもまた、『サルまん』に強い魅力を付与していたと思います。こうしたギャップを身の内に持ってしまった以上、自己言及的なループを加速させ、自爆するさまをお見せするよりないわけですから。




こうした身振りや、結果として表現としての強度が「産まれてしまう」ことを指して、「逃げられない」といっているのですが、さらに言い方をかえれば、人間の「向上心」とか「高みをめざそうという欲望」といったものは、実に無意識的で、強力で、自意識でどうにかなるようなものではない、一種の怪物かもしれないということです。「怪物」というのが言いすぎならば、「暴れ馬」とか。


世の中的な処方として、この「怪物」を飼いならし、おとなしくさせるのが正しいということもできるのですが、しかし、ともすればその力を矯め、結局はこぢんまりと小器用なものを作ってしまうということも多々あります。どんなことでも全力で正面突破をするのが正しいとも、するべきだとも思いませんが、しかし、それがたいへんなことであるのは、確かなことでしょう。控えめにいっても、賞賛の対象としていいはずです。


一方、80年代という時代は、ある種のシニカルな姿勢によって、こうした「正面突破」をまさに「正面」からせずに行う方法を皆が見つけた時代だったということもできるでしょう。
当時、まさに河合塾の講師(知っているひとは知っていると思いますが、あの牧野剛氏です)がいっていた言葉なんですが、「壁にぶつかったら、正面からブチ破るだけが能じゃない。下に穴を掘ってくぐってもいいし、横に回ってみたら案外、向こうに抜ける穴が開いてるかもしれない」というものがありました。ぼくが浪人していた年に講義(といっても、牧野氏の講義は、事実上、放談でした)できいたものですから、85年ですか。


この言葉なんかは、牧野氏が元左翼(当時も現役だったか?)の活動家だったという来歴を合わせても、とても80年代を象徴するものだったと思います。牧野氏は政治的な文脈でこれを言ったのかもしれない。しかし、文化や表現の分野でも、みんなが壁の下を掘ったり、横をスリ抜けたりしようとしていたのが、80年代だったわけです。


それは、ある意味で「ズル」を許容してしまうところがありました。
しかし、繰り返しますが、表現に向かっているうちにどんどん「マジ」になっていくというだけでなく、「ネタ」を「ネタ」として完遂するには「マジ」にならざるを得ないというパラドックスもそこにはありました。だから、「80年代はスカだった」と簡単に割り切れるものでもありません。
そのあたりの、言語化するには曖昧でありながら、でも確かにあったことがらについては、この二冊の本がよく語っています。


マンガ入門 (講談社現代新書)

マンガ入門 (講談社現代新書)

東京大学「80年代地下文化論」講義

東京大学「80年代地下文化論」講義



しりあがり寿『表現したい人のためのマンガ入門』については、また機会をあらためようと思いますが、ここでは宮沢章夫東京大学「80年代地下文化論」講義』に軽く触れてみます。この本について、仲俣暁生さんid:solar:20060720:p1や、田中雄二さんid:snakefinger:20060806:p1の反応をみると、彼らはぼくよりも少し年上(で、むしろ竹熊さんとほぼ同世代)のひとなんですが、この本を契機に80年代を相対化しつつ、むしろ90年代〜現在を定置しなおすという方向に考えが向かっているように見受けられました。


それは、宮沢章夫のこの本が東大の講義、つまりいまの学生さんを相手に、彼らとの質疑応答をさしはさみながら行われた、その意味では「いま、ここ」のものだからに他ならない。つまり、読み手にも80年代から連続するものとして「いま、ここ」について考えることを強いるものになっていると思うんですね。
そのせいか、ぼくはこの本には、どこか読んでいて重苦しいものを感じていました。著者の考え方に対するわずかな違和感も要因になっているんですが、とはいえ、この「重苦しさ」は、けっしてだめなものではなく、むしろ前向きなものであると思っています。


話を『サルまん』に戻すと、今年、このタイミングで『サルまん』が復刊されたということは、先の『東京大学「80年代地下文化論」講義』や、しりあがり寿の本の刊行とも響きあうものじゃないかということです。しりあがり寿の『表現したいための〜』が、かなり直接的に『サルまん』と響くものであることは、同じ「マンガ」というジャンルのことなので想像しやすいでしょうが、そこに意義を見出すとするのならば、それはやはり80年代からの連続として、90年代以降の「いま、ここ」を考え直すということにつきると思います。その意味で、話を「マンガ」に留めるのではなく、これらの本が「いま、ここ」で刊行されてしまったことの同時代性(2006年、という現在の同時代性です。為念)を見出してもいいはずです。




とまあ、いささか回りくどくなってしまったんですが、『サルまん』とやはり同じくこの夏に復刻されたものに、フリッパーズ・ギターがあるんですね。
そう、3rdアルバム(は、今回復刻されていませんが)で「ジョークのつもりが本当に降りれない」と歌い、あたかも自爆するかのように解散した、フリッパーズです。


THREE CHEERS FOR OUR SIDE

THREE CHEERS FOR OUR SIDE

CAMERA TALK

CAMERA TALK



日本のポップ・ミュージックを本質的に更新し、「渋谷系」の一方の礎となったフリッパーズですが、そこには、『サルまん』と通じるような諧謔や、サンプリング、シニカルで挑発的な物言いがあったわけです。もちろん、フリッパーズもまた、そうした態度やオシャレな意匠とは裏腹に、たっぷりと毒を含んだ「頭のおかしい」ものであったのですが。


「オタクvsサブカル」、あるいは「モテvs非モテ」という対立図式でみてしまうと、とかく『サルまん』とフリッパーズの類似は見えなくなってしまうのですが(二項対立というのは、なんにせよ単純化による隠蔽を伴います)、しかし、この両者には、やはり共通するところがある。それを見たほうが見通しはよくなると思います。


具体的に『サルまん』とフリッパーズの関わりは……というと、当時、音楽誌「PATi PATi」誌上でやっていたフリッパーズの連載のなかにあった「フリッパーズに似ているもの」というコーナーで、読者が『サルまん』をあげてきたということが思い出されます(たしか「PATi PATi」だったと思うけれど……雑誌名の表記すら怪しい)。
あとは、解散後、コーネリアスとなった小山田圭吾が、コーネリアスの活動について、自ら「とんち」という語をあげているとかですかね。


http://imomus.com/jpop.html
※リンク先英文。小山田ら渋谷系ミュージシャンと交流の深いイギリス人ミュージシャン、モーマスによるテキスト「Shibuya-kei is Dead」