ムジーク・ブリュット

今日は病院に行くため、普段は使わない京王線に乗った。
すると、年のころ30過ぎくらいの、大柄な男性と乗り合わせた。独特の雰囲気と挙動から、自閉症か知的障害をもったひとだろうということがすぐにわかった。彼は取材で使うようなテレコを片手に持ち、自分の耳元で少し再生しては巻き戻し、また同じところを再生して、うなり声のような奇声をあげていたのだ。


瞬間、ぼくはその「音楽」をカッコイイ! と思った。
彼はテープをほんのコンマ何秒ほど再生し、キュルキュルと巻き戻し、またすぐに再生する。
結果、ごく短いフレーズと巻き戻し再生のメカニカルなノイズ、そしてボタン操作の音が反復されることになっていた。その反復はとても正確にリズムを刻み、ボタン操作の音はまるでパーカッションのように聴こえた。


よく聴くと、元のテープはアニメソングか歌謡曲のようで、ひどくキャッチーで安っぽいフレーズの女性ヴォーカルや、ブラスが反復されている。テープはかなり伸びてしまっているようで、音はでろでろに変形している。それもまた、テープ操作によるダブか何かのように聴こえる。あえてBPMといえば80くらいか。ある意味、テクノやノイズを聴きなれた耳には「おっ」と思えるようなものだった。ああこれ、もし録音してCD化したら、全世界のノイズ好きが買うから1000枚完売は間違いないね、とかそんな感じ。ぼくは、実際にそのリズムや音色を「美しい」とすら思ったのだ。


"アーティスト"氏は普通から快速に乗り換え、ぼくも同じく乗り換えた。そして今度はさらに彼に近い位置のつり革につかまり、「かぶりつき」でライヴを聴くことにした。すると、ごく短い巻き戻し操作にもかかわらず、まったく違う曲が再生されていることがわかってきた。元になっているテープ自体が細かく編集されたものであろうということが推測された。


これは、アール・ブリュット=生の芸術にならってムジーク・ブリュット Musique Brut*1アウトサイダー・ミュージックといっていいと思う。いってみればDJ的なリミックスで、しかも、ノー・シンセサイザー、ノー・コンピューター。あえていってしまえば、ルー・リード『メタルマシーン・ミュージック』みたいなものだ。しかし彼は、おそらくただ自分が聴きたいところだけを反復して再生して聴いているだけにすぎない。彼の聴衆は、本来、彼ひとりなのだ。精神科医であれば、彼の行動を「常同行動」とかといった症状とカウントするだろう。


ここで、彼の「音楽」を、無垢で純粋な行為としての音楽、と位置づけ、そういった修辞で賞賛することもできるだろう。しかし、そうした紋切り型に、ぼくは違和感を覚える。彼の「音楽」は、雨の土曜日の午後、京王線の車内のあの一瞬、「美しかった」のだ。たぶん、それだけのことだ。そこにぼくが、幸運にもいあわせた、ということだ。
だからもし、どこかの誰かが彼の「行為」に目をつけ、何らかの形で録音し音盤として流通させたとしても、それは何か違うものになったと思う(まーでも、そういうCDが出たらたぶん買うと思う。それで宇田川岳夫さんとかに勧めるw)。


以前、斎藤環さん、椹木野衣さんと、ヘンリー・ダーガーアール・ブリュットについての鼎談(残念ながら諸般の事情でお蔵入り)をした際、ポップ・ミュージックにおけるそれ、ムジーク・ブリュットは存在しうるんだろうか? という話になった。そのときには、楽器の演奏にはそれなりの習熟が必要なので、難しいんじゃないかという方向に流れたのだが、今日、これか、こういうあり方があるか、と思ったわけだ。
だから、これはアール・ブリュットアウトサイダー・アート全体にかかわる話なのだな。とくに今日出会った「彼」のはそれこそ「ライヴ」であったがゆえに、その一回性、一期一会であることを強く印象づけた。こんなことを考えたのは、日本におけるアウトサイダー・アートの問題を丁寧に追ったこの本を読んでいたことも手伝っていただろう。


アウトサイダー・アート (光文社新書)

アウトサイダー・アート (光文社新書)

*1:フランス語を知らないのでカタカナ表記に自信がないです。