芳崎せいむ『金魚屋古書店』に唾を吐け!



某所に書いた原稿のアウトテイクです。


金魚屋古書店 2 (IKKI COMICS)

金魚屋古書店 2 (IKKI COMICS)



金魚屋古書店』、私にはやっぱりダメでした。


しかし、どうにもマンガについての「語り」の場所には、『金魚屋』を批判しては「いけない」ような空気があると思うのです。「マンガを愛している限り、みんな仲間なんだから許される」という微温的な、そして極めて抑圧的な雰囲気です。「みんなが仲間でいられることの平穏を少しでも脅かすな」という、同調圧力的な、日本的なファシズムを支えたそれです。70年代後半以降、ずっと持続してきたものでしょう。近年ではずいぶん薄れたと思うんですが、しかし、同時にこのエントリーをアップするのに、一定の勇気を必要としたのも、確かなことです。


そういった不愉快なものを『金魚屋』という作品に感じるのは、すべてが「いい話」に回収されていくからということと、おそらくその責を、作家一人に負わせることはできないだろうということに由来します。『金魚屋』と同様に、他の作家が「マンガについてのマンガ」を描いたとしても、各エピソードを「お話」としてきっちりと構築しようとする力が、やはり同じような展開を強いたと思うからです。その意味では、作者をただ断罪する気にはなれません。


でも、これでいいのか? というと、やはり良くないのではないか。
『金魚屋』がまがりなりにもマンガという表現への自己言及という体裁を取っている以上、この「外部」のなさ、微温的な抑圧は決して褒められたものではない。
「マンガ」をいう表現をめぐる貧しさが、ここに噴出したと考えられるからです。


一方で、ぼく自身、この作品をそれなりに面白く読んでいます。メジャー誌的な人情モノとしては、わりとよく出来ていると思う。そこに快楽があったことは否認してはいけない。そういう自省も一方であるんですね。個々のお話の内容をコンスタティヴに受け取れば、それは疑問を差し挟む余地もなく「いい話」でしょう。であれば、釈然としない気持ちになるのは、単に自分の「ひねくれた気持ち」ではないのかと思ったりもするのです。


しかし、そうした自省を経てもなお、やはり『金魚屋』には批判的にならざるを得ません。
これは、突き詰めると自分の美意識の持ち方に行き着いてしまう話ではあるんですが、あまりにスタティックで、微温的な空間には「美」はないと考えてしまいます。環境から与えられたものと、そこで成し得るものとの齟齬や摩擦にこそ、表現の「美」は宿ると考えていますから。
ここで安直にロックと対比することは控えるべきかもしれませんが、たとえば、イギリスのポスト・パンク・バンド、ドゥルッティ・コラムのファーストアルバムが半ばジョークとはいえ、紙ヤスリをジャケットに用い、、「ほかのレコードのアートワークを破壊するため」と言ってのけたような、静かな暴力性、批評性は『金魚屋』的なマンガ空間には全くないんですね。やはり、そこがイライラしました。


では、マンガという表現に、批評性を孕んだものがないかといえば、そんなことは全くなく、手塚治虫からはじまり、随所に現状を破壊して表現を前に進めようという営みはあったわけです。しかし、それを『金魚屋』的な空間は無視し、否認し、なかったことにしている。かわりにあるのは、たとえば同窓会に行って、お互いに昔読んだマンガを懐かしく思い出し、「この力はなんだろう……」と、ほんわかと一時的にイイ気持ちになるとかいった薄甘いノスタルジーだったりします。
事実、マンガという表現を、その「外」と切り結ぶようなマンガは、まったく登場していません。大友克洋の初期を、岡田史子を、あるいは富樫義博相田裕を、『金魚屋』はどう扱うんでしょう? 岡崎京子根本敬を扱うことはできるのか? 物語の説話的な構造がもたらす制約をはねのけ、これらの作品群とサシで渡り合うのであれば、そのときはじめてぼくは『金魚屋』を信用することにします。
でも、それはまず絶対に起こり得ないことでしょう。


それから、登場するマニアたちがマンガ作品に向ける視線も、「本」というマテリアルに対するフェティッシュと、主に主題のレヴェルに留まった「読み」との間を曖昧に行ったりきたりするのみで、それ以上の幅も、深まりもありません。そこのあたりが、レコードコレクターを題材とした本秀康レコスケくん』とも違うところだと思います。おそらく、研究や批評だけでなく、マンガについては「マニア」や「コレクター」も未成熟なんでしょうね。


いずれにせよ、『金魚屋古書店』に対するぼくの評価は、「唾棄すべき作品」です。
マンガ表現のエッジに立つことを自ら任ずるのであれば、現在の掲載誌「IKKI」は、こんな後向きな作品を掲載してはならない筈です。しかし、それが歓迎されてしまうところに「マンガ」の不幸はあるのでしょう。



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このマンガから見える感情は、「マンガへの愛」を口にしながら、その実、マンガの首を絞め続けているものだ。寄生虫とでもいうべきものだろう。
ぼくは基本的にマンガ作品やマンガ家の姿勢はギリギリまで批判せずにおこうと考えている。批評家としての矜持である。レヴューであればなおさらそうだ。どこかにその作品を歓迎するひとがいて、「何か面白いマンガはないかな」と思ってレヴューを読んでいる以上、一方的に批判しさるようなものは書くべきではない。
しかし、そうした職能を果たすという部分とは別に、やはり譲れない一線はある。それでも批判的言辞をとらざるを得ないときがある。今回がそれだ。ふざけんな、と思う。マンガをなめんな、と思う。
このマンガを賞賛しているひとのなかには、「なんとなくこれを褒めておかないといけないんじゃ……?」という気持ちから褒めているひとがいるんじゃないか。でも大丈夫、それ、気のせいだから。