宮本大人による、秋田孝宏『コマからフィルムへ』評

http://d.hatena.ne.jp/hrhtm1970/20050928/1127917376


たいへんまとまった評が出ました。
秋田さんのこの本は、実によく整理された、必携書である……という予感はしつつ、実はまだきちんと読めておらず、そのせいでなかなかこのブログでも評が書けずにいたんですが(ちゃんとしたのを書かねば、と思えば思うだけ後手にまわるという……すいません)、ミヤモ先生が適確な評をお書きになっています。


「コマ」から「フィルム」へ マンガとマンガ映画

「コマ」から「フィルム」へ マンガとマンガ映画



ホントに、今日のところはリンク先をじっくりお読みいただくのがいちばんいいんで、そうしていただければと思うんですが、まずは自分の本と関わってくるところをクリップしておきます。

この、「時間」の問題のように、作り手がコントロールしようとしてもしきれない部分に、マンガというメディアの「面白さ」を見出していこうとする姿勢、そして、「コマ割り」をその手がかりにしている点で、この『「コマ」から「フィルム」へ』と、伊藤剛さんの『テヅカ・イズ・デッド』は、非常に深いレベルで共振しあっています。



その、「非常に深いレベル」での「共振」は、これから具体的に宮本さんによって指摘されることであり、きっと、書き手であるぼくの想定を超えたものが、あるいはぼくが無意識的に指し示していたものが明確に言語化されるのではないかと思いますが、まずは秋田さんの本が「コマ」をタイトルにも入れ、かつそれを「映画」との関係で論じていることと、ぼくが拙著の第四章で「コマわり」概念を整理しつつ、マンガが「映画的」であると同時に、いかに「映画的」ではないかを論じていることに、大きな「共振」を見ることができます。


その意味では、同じ出版社、同じ担当編集者で相前後してこの二冊が出たことは、とてもすばらしい幸運であると同時に、結構キツい事態でした。秋田さんの本が出たのは、こちらの原稿が脱稿するかしないかのころ。急いで直接関係しそうなパートを読み、なんとか注釈で『コマからフィルムへ』に触れることはできましたが、本格的にこの本を踏まえた議論を展開するところまでは行けませんでした。それをやってたら、本が出るのはもう半年、下手すれば一年は遅れたでしょう。担当・ウエクサ君がぼくに『コマから〜』のゲラを見せなかったのもよくわかります(笑)。


とはいえ、それでも「非常に深いレベル」の「共振」が見られるというのであれば、それはやはり、表現としてのマンガを成立させているメカニズムへの論理的アプローチとして、必然的にそこへ行く、というものであるはずです。そうしたものを、ぼくももちろん、これから秋田さんの本を読んで見出していきますが、宮本さんによる分析を待ちたいと思います。


どうしても自分の本とのかかわりでものをいってしまいますが、もうひとつ。文体をめぐる問題について。

文章も、前半後半問わず、非常に明解で読みやすいです。余計な修辞は全くと言っていいほどなく、ほぼ無色透明と言っていい文体で書かれています。これも、よく考えればかなり画期的なことです。マンガやアニメを論じることは、特にそれを「売文業」として成り立たせることは、どうしても、ある種のケレン味を含んだ「独自の文体」を書き手にまとわせがちです。しょうがないといえばしょうがないのですが、こうした内容、こうした形式の書物には、そうした文章自体の「味」みたいなものは、むしろ余計だったりするわけで、可能な限り多くの人にとって「好き嫌い」の起きない、誰が読んでも同じ理解に到達できるような文章が望ましいわけです。

やたら文章にこだわってますが、なんでかっていうと、さきほどふれたように、マンガ論とかアニメ論の世界では「独自の文体」が当たり前になっているために、津堅さんや秋田さんのような文章で書かれたものが、単に「つまらない」とか「文章が下手」という受け止められ方をする傾向があるように感じているからです。でもね、そいつはちょっと違うんですよ、ということです。みずからのスタイルの「独自性」を極力消去するスタイルの美学、っちゅうもんが、存在しうるんだってことなんです。



ここ、本当にここ、重要です。
ことマンガやアニメ、あとゲームもでしょうが、ある種のレトリックやケレンでいつも読者の目をひいていないといけない、という強迫観念ってのが、こと「評論」や「レビュー」についてまわっています。何かっていうと、「文章が下手」とかいう批判しかできないひととか、いるでしょう。でもそのご本人がやってる仕事がどうかっていうと、流麗なレトリックで読ませはするが、いっている意味内容をまとめると、ほんのちょっとになってしまったり、常識的なことを繰り返しているだけ(あるいは、そのひっくり返しであるだけ)だったりします。


それは、一時の暇つぶし的な読み物としてはいいかもしれないけれど(暇つぶし的なものの価値は否定しませんが)、マンガやアニメに関わる文章が「そればっかり」でいいわけはないんですね。だって、対象について真剣に考える、という観点で見た場合、流麗なレトリックや、面白げな語り口<ばかり>のものは、一転して本当にスカスカな、後になんにも残らないものとなったりするからです。いきなり色褪せてしまうという言い方もできるでしょう。そんな「貧しさ」が、ことマンガに対する「評論」にはついてまわってきたと思います。


いささか攻撃的な物言いに取られるかもしれませんが、しかし、それは個々人の能力や資質の問題だけではなく、そうした「貧しさ」を強いるものが、この場所にはあったということです。その理由も、ある程度わかっているのですが、あまりに長くなるので、ここでは控えます。


ここでの話は「文体」や「文章」の問題です。


だからぼくは、今回の本『テヅカ・イズ・デッド』を書くにあたって、できるだけ簡潔で、とにかく意味内容だけを明快に相手に伝える、機械のような文章を意識したんですね。それやんないと先に進めないと思った。ぼく自身も前に進まないし、不遜な言い方ですが、「マンガ評論」そのものも進歩しないと思ったのです。


まー別のレヴェルでは、それなりに批評的なケレン技は使っていますが(笑)、それでも、ぼく個人の「思い入れ」を特権化し、そこにすべてを回収していくような「語り」、あるいは「マンガを読む私」を論の最終的な根拠にしてしまうような「語り」は、可能な限り排除しようと考えました。もちろん、「私」を完全に消し去ってしまうことは不可能なんですが、その結果、行き着いたのが、マンガを読む人々の多様な「読み」を、できるだけ広いレンジで説明でき、極力、抑圧しないような分析モデルを模索することだったんですね。
そこで、逆に「機械のような」文章は必要になっていった。流麗なレトリックや、面白おかしいいいまわし、気の効いた比喩といったものでは、モデルの提示は難しかったでしょう。それでも、突き詰めていけば、なんらかの形で「論」としての美しさや強度はにじみ出てくるはずだ、と信じて書いていました。それが成功しているかどうかは、読み手のみなさんの判断で決まることですが。


というわけで、『コマからフィルムへ』とあわせて、『テヅカ・イズ・デッド』もよろしくお願いいたします。また、ほぼ同じ時期に津堅信之さんの『アニメーション学入門』も刊行されており、


新書291アニメーション学入門 (平凡社新書)

新書291アニメーション学入門 (平凡社新書)



なんだか、マンガ・アニメ評論の大きなムーヴメントの一翼を担っているような気になってきます。まーぼくのなんかは、端正なお二人のご著書に比べると、本当にもう、ヤクザのチャンバラというか、「ムガムチュウで切りつけ」(@ブラック・ジャック)るようなもので、末席を汚している、という感もあるんですが。