石子順をめぐる冒険・その1

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現・和光大学教授です。教えている内容は「漫画の歴史」。
ということは、宿敵・呉智英さんより社会的な地位は上。
呉さんはこういう「不正」を許してはいけないと思います(笑)。
前にぼくがここで石子順について少し書いた後、紙屋研究所さんが石子順についての小論をアップされています。こういうリアクションがあった以上、石子順についての考察をもう少し続ける責任が生じたと思います。
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/kokorowosodateru-manga.html
前回、ぼくが書いた小文はこちらです。
http://d.hatena.ne.jp/goito-mineral/20050512#p1


紙屋研究所さんでいわれているのは、「教育」という観点からマンガをみたときにどうなのか? 少なくとも石子順はそれにある程度答えているではないか? という問題提起ですね。それはとても重要な視点だと思います。
しかし、まずはもっと手前の問題として、石子順には最後まで石子順造との謎のペンネーム酷似という不可思議な事態がついてまわります。前にも書きましたが、これってやっぱりいまオレが「東浩」とか「夏目房之」とか名乗るようなものでしょう。
ちなみに石子順の本名は「石河(いしこ)糺」、石子順造の本名は「木村恭典泰典」。←字を間違えていました。訂正:05/08/21
このあたりの事情を、呉智英は主著である『現代マンガの全体像』(1986)で以下のように書いています。
同書は、現在では文庫で刊行され、いまにいたるまで「マンガ評論」の必携書とされています。

現代マンガの全体像 (双葉文庫―POCHE FUTABA)

現代マンガの全体像 (双葉文庫―POCHE FUTABA)



一般には、この呉による「批判」によって、その後の「マンガ評論」では、石子順はほとんど顧みられなくなったとされています。手塚治虫のインタビューを除いて、ほぼ誰も参照していないんですね。

マンガ史と並行するマンガ評論の歴史が、いわゆる跛行的(はこうてき:原文ではルビ)進行を見せ、マンガが隆盛であるにもかかわらず、マンガ評論が評論としての普遍性も深さも獲得していないことは、前章までで述べた。これは、残念なことではあるが、必然である。そうなるだけの理由があってそうなっているのである。
 ところで、ここに、まことに不思議な偶然がある。この偶然が、マンガ評論の歴史の残念な必然と深く結びついているのである。マンガ評論の世界には、それが評論として確立されていないものだけに、専業にしろ兼業にしろ、評論家の数は非常に少ない。その少ない評論家の中に、名前が酷似(こくじ:原文ではルビ)する二人の評論家が存在するのである。正確には、一人は既(すで:原文ではルビ)に没し、一人が生きているのであるが。
 その二人とは、一人は、石子順造、もう一人は、石子順
(中略)
 マンガに対する認識の低い編集者が、石子順造石子順を混同してもすこしも不思議ではない。


呉智英『現代マンガの全体像』 情報センター出版局 30-31ページ(文庫版では28-29ページ) 1986 太字強調は原文では傍点 



ここで特記すべきは、呉智英が「マンガ評論」の貧しさを象徴するものとして、石子順の活躍をあげていることです。ようは石子順造との混同の上に仕事をしていた、というのですね。つまり、「マンガのことなどどうでもいい」と考えているような意識も低く、知識もない編集者・記者たちであるがそれを支えているという主張です。
上に引用した文章に続いて、マンガ評論をさせるのに誰かいないか、と文筆家名簿を繰る編集者の姿が「想像」されています。

ああ、石なんとかという評論家はどうだろう。その名前は聞いたことがある。石子順だろう。ああ、それそれ、ということになって、文筆家名簿をめくる、石子順造石子順では、五十音順でどちらが先に収録されているか、つまり、どちらへ先に目がいくか、明らかである。かくして、石子順に白羽の矢が立ち、どこかの喫茶店で会い、打ち合わせとなる。むろん、この時点で、どんな編集者であろうと、石子順造石子順が別人であることを知らされることになるはずだ。しかし、二人が別人であったからといって、編集者にとってどんな不都合があるだろうか。なぜならば、石子順だって、永島慎二水島新司が別人であることぐらいはちゃんと知っているからだ。であれば、編集者よりは、はるかに知識のある立派な評論家であることになる。
 こういう信じがたいようなことが実際にあるのだ。


同 31ページ(文庫版では29-30ページ)



「実際にあるのだ」ってあんた現場をみたんか、というツッコミはさておき、永島慎二水島新司の区別が出てくるのは、この前に永島慎二(先ごろなくなられた永島慎二です)が大麻所持で逮捕された報道に際し、水島新司と混同したと思しき報道がこの前に紹介されているからですね。たとえば、81年4月3日づけの朝日新聞で「『柔道一直線』『漫画家残酷物語』など少年を主人公とする根性物を得意としていた」と報道されたことなどです。
ようは、マスコミの意識が低く、かつマンガ評論があまり貧しく、知識が知識として共有されてもいないから、石子順のような紛らわしいペンネームでも仕事ができるのだ、ということが、ここでの主張です。


さらに呉は、その石子順の評論を「これほどひどい評論はないというほどひどい評論なのである」と、強い調子で糾弾します。石子順は、最も愚劣な評論をした上、党派的なペテンをするのである」というのです(同 32ページ)。

結論を先に言おう。石子順は、日本共産党の御用評論家であり、そのくせ、日共の息のかかっていない新聞や雑誌では、先にファシストの先導だと言わんばかりに叩いたマンガを賞賛し推薦するのである。私は、日共の文化理論はきわめて愚劣だと思うが、これも、愚劣な理論としての存在理由はある。だから、それはそれでよい。しかし、党派的なペテンは、どんな理由によったら許されるのだろうか。石子順造石子順との混同の上に登場し、愚劣な日共の文化理論でマンガを断罪し、マンガ史を日共の文化理論の都合で塗り変え、しかも、一般の雑誌や新聞では、平気で前言を翻(ひるがえ:原文ルビ)す。唖然とせざるをえないのだ。

同 32ページ(文庫版では30ページ)



といった調子で、強い糾弾が続きます。
この本が出たときの呉智英は39歳。いまのぼくが38歳ですから、ほぼ同年齢ということになります。


もちろん、この呉の強い糾弾に対する批判はあります。
たとえば、明治学院大学助教授・山下裕二は次のように評しています。

呉氏が「日共の御用評論家」として徹底的に批判する石子順石子順造とは別人)は、かなりの著作を残している人だが、確かに二枚舌の極致で、ここで問題にするような存在ではないだろう。と言うか、石子順や、やはり呉氏がいかにも得意な意地悪な口調でクソミソにけなす「小学館の御用評論家・副田義也」や「粗雑な民衆文化論者・津村喬」についても、氏の言うことはいちいちもっともだが、こんな議論を見ていると、境界意識の搾りカス、だけではなくて、全共闘世代のトラウマの搾りカスを見ているようで、なんだかつらい。「大衆文化」への共感を延々と語る「文化人」に連れて行かれた新宿ゴールデン街の飲み屋で、喧嘩がはじまって、まあまあ、といって酔っぱらいの相手をしているような気分になってしまう。


山下裕二『マンガ・美術・批評をめぐる透視図 境界意識の不毛』 「美術手帖」1998年12月号 特集・マンガ 美術出版社、80ページ



もうひとつ。こちらは大塚英志によるものです。


石子順のまんが研究に関する仕事は呉智英(くれともふさ:原文ではルビ)が「日共の御用評論家」という、今となっては若い読者に批判のベクトルの向く先さえ定かでない批判を『現代マンガの全体像』(情報センター出版局刊、昭和六一年四月一一日)でかつて行い、同書がまんが批評やまんが研究の入門書として未だに機能しているため、まんが研究の中では黙殺される傾向にある。


大塚英志アトムの命題 手塚治虫と戦後まんがの主題』 角川書店 79-80ページ 2003


うーん。思ったより呉さんへの批判は控えめですねえ。
それにしても、なんでこうみんな嫌味の応酬になるかなあ。
……とりあえず、今日はここまで。