追記:宮本大人さんによる書評が掲載されました。

http://d.hatena.ne.jp/hrhtm1970/20071113/


本件に対する「援護射撃」的な文章に続けて、拙著を適確かつコンパクトにまとめた紹介文が掲載されています。児童文学研究関係の雑誌に掲載されたものの再掲です。
とくに拙著をまだお読みになっていない方には、ぜひお読みいただければと存じます。
宮本さんには「こんなん」に時間を使わせてしまってちょっと申し訳なかったりしますが。
さすがに刊行後二年が経ち、売れ行きもぼちぼちになっていますので、「あ。まだ買ってなかった」という方は、これを機会にぜひどうぞ。純丘先生に便乗して宣伝しておきます。


テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

純丘曜彰さんという方

少し前まで存じあげませんでしたが、東京芸大で学位をお取りになり、映像関係の仕事をされた後、現在は九州東海大学の准教授をしておられる方です。08年からは、ドイツのマインツの大学の客員教授も兼任されるとのことです。
すみおか・てるあきさんとお読みします。
http://www.hi-ho.ne.jp/sumioka-info/

1 竹内一郎手塚治虫=ストーリーマンガの起源』に関するアマゾン書評

3 人中、0人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 5.0

小者たちの嫉妬って恐いねぇ。でも、これ、いい本だよ。, 2007/10/17
手塚のマンガを、マンガとマンガ論ができる以前の、当時の大きな文化的文脈の中において読み解いた本。細かなところには、いろいろつっこめるけれど、分析考察の文化論的視座としては、とてもバランスの取れた視野の広い良書。マンガに限らず、特定時代のポップ文化を学ぼうという大学生は、手塚うんぬんはともかく、研究方法の模範になるよ。
 で、日本文化がどうこうなんてこと、書いてないじゃん。手塚が起源だ、とも書いてないぜ。そうではなく、分野を超えるストーリーテラーの系譜の中に手塚を位置づけている。だから、これ、マンガしか読んでないやつには、難しくて、根本からわかんないだろうなぁ。
 この著者には、こういう手塚に周囲がどう反応したか、外側も続けて研究して、教えてほしい。というか、原稿があるらしいから、早く本にして読ませてよ。当時の島田啓三の酷評の話はあるけど、その後も、大塚とか宮崎とかの手塚憎悪や人格攻撃って半端じゃないもの。手塚本人もひどかったけどな。



「マンガしか読んでないやつには、難しくて、根本からわかんないだろうなぁ」
だそうです。
純丘氏の専門は映像・映画関係ということなのですが、このブログをお読みの方はよくご存知の通り、従前から竹内書については「映画的」手法についての考察があまりにずさんであるという指摘がなされています。
そうしたずさんさに目をつぶってまで「細かなところには、いろいろつっこめるけれど、分析考察の文化論的視座としては、とてもバランスの取れた視野の広い良書」と、高く評価すべき点は具体的にどのあたりにあるのでしょうか。
「映画的手法」についての考察の杜撰さについては、鷲谷花さんが詳細に検討されています。
■ハナログ 「現状」への軽蔑、「起源」への欲望
http://d.hatena.ne.jp/hanak53/20061110


竹内氏が引いている原著とつきあわせてみれば明白なレヴェルで、参照した本の内容にほとんど改竄に近い変更を加えていることが分ります。論理的なおかしさといった突っ込んだ議論の手前での話です。


また、この本の元となった「博士論文」を材料に、さらに本質的な問題点は指摘されています。この本が九州大学で学位を取ってしまったことをめぐる構造的な問題も含めて、です。


宮本大人のミヤモメモ 竹内一郎サントリー学芸賞受賞問題の〈起源〉
http://d.hatena.ne.jp/hrhtm1970/20061121
■同 竹内一郎サントリー学芸賞受賞問題の〈起源〉・承前
http://d.hatena.ne.jp/hrhtm1970/20061124


これまたご存知のとおり、竹内書にはさまざまな人によって批判がなされ、一種スキャンダラスな本として扱われるに至っています。ウェブ以外でも、斎藤美奈子氏などが言及していますし、控えめな筆致でしたが、朝日新聞でも記事になりました。
一方、そうした評価を知ってか知らずか、純丘氏は「特定時代のポップ文化を学ぼうという大学生は、手塚うんぬんはともかく、研究方法の模範になるよ」と絶賛されています。この竹内書を「模範」として「特定時代のポップ文化」を学ぶ方法とは、どういうものなのでしょうか。
竹内書の問題点としては、事実関係は確認しない、参照した文献はまともに読めていない。論理的にはトートロジーもあり、情緒的な文章でイメージ操作も行う……といったことが、すでに指摘されています。
純丘氏には、このような批判を跳ね返したうえで、きちんとどこが、どう模範になるのかをできるだけ具体的に示していただきたいと思います。




さて、純丘氏は拙著『テヅカ・イズ・デッド』に関しては、強い調子で批判をされています。批判というよりも「まともに取り合う代物ではない」といった評価を下されています。なかなか手厳しいご意見です。


2 拙著『テヅカ・イズ・デッド』に関するアマゾン書評

11 人中、5人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 3.0

タイトル倒れ以前に本として趣旨不明, 2007/9/1
 一言でいえば、たいていのことは手塚治虫がやった、だから、マンガ史が成り立たない、というだけのこと。でも、本文は、その話と関係ない寄せ集め。全体がつながっていない。
 第1章は、ガンガン論、第2章は、ぼのぼの論。第3章は、耳男論、第4章、第5章は、マンガ論論で、人の引用だらけ。なんだかよくわからない抽象概念図がところどころにあるが、本文に説明がなく、さっぱりわからない。全体として、理論的には夏目房之介の亜流。やたら難しい言葉が多いわりに、中味がない。キャラ論の問題も、夏目の本の方が簡潔に核心をついている。
 マンガ論全般に言えるが、無理に難しいことを長々と言いたがるのは、中味の無さが強調されるだけ。まるで大学生の卒論の初稿のよう。いきなり文章を書くのではなく、まず話を整理して、要点にしぼってから本を書きましょう。



いかがでしょうか。


サントリー学芸賞受賞、九州大学論文博士といった名誉にはひとつも浴していない、無冠の、在野の者がどうにか書いたものですが、はたして純丘氏がおっしゃるように「本文は、その話と関係ない寄せ集め。全体がつながっていない」ものでしょうか。
本人としては、あれは各章がきわめて有機的に繋がっており、どこも落とすことができないため、結果としてあの分量で出版するという判断に至ったものと認識していましたが、お読みになった方の印象は違うということでしょうか。
純丘氏のご指摘の通り「趣旨不明」の書であれば、多くの方々が拙著を評価してくださったのは、皆さんが読み違えている(伊藤のレトリックやパフォーマンスに騙されたとか?)ということなのでしょうか。
来年には、某旧帝大でのシンポジウムや、パリで開かれる国際シンポジウム、それからマンガ学会のシンポにも私は呼ばれていますが、それらの関係者の皆さんは、ことごとく私に騙されているのでしょうか。それとも、マンガ研究についていい加減な認識でいて、ものの良し悪しも分らない状態にいるのでしょうか。
私を非常勤講師に呼んでくださっている、武蔵野美術大学東京工芸大学もそうなのでしょうか。
純丘氏が信念を持って拙著をここまで批判されるのであれば、彼ら関係者の蒙を啓いていただきたく存じます。純丘氏ご自身から各大学などの関係者各位に連絡を取り「伊藤のあんな卒論の初稿みたいな本に騙されていてはいけませんよ」と諭されてみてはいかがでしょうか。


九州東海大学のサイトをみると、同大でもマンガ関係に食指を動かしているようです。
http://prog.pr.tokai.ac.jp/ktu_renew/TkpNewsInfo?p_kijikubun=01&p_kijic=20070704171900
一方、アマゾンの読者書評をみると、純丘氏がたいへん旺盛にマンガ論関係の本をお読みになっていることがわかります。
http://www.amazon.co.jp/gp/cdp/member-reviews/ACKYE0Z1IWIW3/


たいへん失礼ながら、純丘氏は拙著を急いで斜め読みなさったのではないかと推測いたします。また、大学での専門教育も受けておらず、一般的な知名度もない著者である私に対しては、最初からナメてかかられたのではないかとも思います。


それとも、隠れた意図があってのことでしょうか。
純丘氏と私とでは、学問というか「ものを考える」こと自体へのとらえ方が異なっているという気もいたします。彼は、すっかりスキャンダラスなものとなった竹内一郎の本を擁護し、その一方で必要以上にちやほやされている私の本を厳しく評価することで、ご自身の「知」に対する信念を示されているのでしょうか。
そうであれば、世評の真逆を行く行為ですから、それはたいへんに英雄的な行動として賞賛されるべきものかもしれません。